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【リヨン留学記】3話:リヨンの小さなマダム

 家の中でゴーンゴーンという鐘の音が聞こえてきたら、オディールに電話が掛かってきた合図である。これがしょっちゅうのことで、書斎の椅子に腰掛けて電話に夢中になっている彼女に口パクで「À ce soir(直訳だと夜に。行ってきます、という意味)」と告げて家を出た日がわたしには幾度もあった。わたしに気がついた彼女は元パリジェンヌらしい粋な身のこなしで小さな手を上げて指を動かし、いつものいたずらっ子のような笑顔で見送ってくれた。
 5人家族がのびのび暮らせるような広い家を求めて27歳で生まれ育ったパリを離れたオディールは、リヨンでも持ち前の社交性を発揮して山ほど友だちを作っていた。
 リヨンに着いた日にオディールに世界遺産にもなっている中世の街並みが残る旧市街などを案内してもらったときは、「あらぁ」と、数時間足らずにも関わらず彼女の友人のリヨネーゼたちと出会い(パリジェンヌや関西人など、地域で暮らす人の総称のリヨン版)立ち話になった。
 さらにわたしのような留学生とも、彼らがフランスを離れた後も連絡を取り合っているらしい。
「この間はね、日本人の子と1時間以上も電話したのよ。それもフランス語でね」と、うふふと笑って見せる。
 そんな彼女の自慢の品は留学生たちが残していったメッセージだった。A5サイズほどのスケッチブックに今まで彼女たちが受け入れてきた留学生たちが、フランス語でお別れのメッセージを残しているのである。
「これはドイツ人、これはポーランド人、韓国、カナダ、スイス、スペイン、そして彼女はあなたと同じ日本人ね」と、うれしそうに1ページ1ページをめくり、時々指を指して思い出を語ってくれた。これが相当彼女のお気に入りのようで、見せてもらったのは1度ではない。ことあるごとに彼女はこのスケッチブックを開き、わたしに見せ、口の中でチョコレートを溶かすように留学生たちとの日々を思い返しては味わっていた。
 さて、わたしとオディールとの関係はもちろん今でも良好である。けれども人が同じ屋根の下で生活を共にしていれば、まぁ何かあるのが常なのだ。わたしとオディールもその例に漏れなかった。この留学で、わたしはオディールに2度ほど怒られている。今となってはほほ笑ましい思い出なので、ここに記しておこうと思う。
 最初に怒られた理由は、早朝わたしがうるさかったからだ。なんでうるさかったのかというと、日本とリモートを繋ぎ、会議をしなくてはならなかったのだ。留学していたとき、わたしは学校に通いつつ夜は時々執筆の仕事をしていた。その仕事をくれている取引先と月に何度か会議をしなくてはならず、けれども時差があるため学校などの時間を避けようと思うと、早朝しか時間が残されていなかったのである。例えばフランスの朝4時は、日本だと11時。出勤した人たちがメールなどを返しおわって落ち着く、話すにはちょうど良い時間である。
 1度目の会議はうまく誰も起こさずやりこなしたが、2度目はそうはいかなかった。部屋でノートパソコン越しに日本人のクライアントと話しをしていると、誰かが廊下を歩く音やドアを開く音が鳴り響き、その音の粗雑さで「あ、わたしが原因で誰かを起こしてしまったな」とすぐにわかった。わかったものの、会議を途中でやめるわけにもいかなく、わたしは少しばかり声のトーンを落とす配慮はしたものの、そのまま話し続けた。
 しばらくすると、トントンとドアをノックする音が聞こえた。「あぁ絶対怒られる」と覚悟を決めて怖々ドアを開けると、薄暗い廊下に怪訝な顔のオディールが立っていた。そしてストレートに「bruit(うるさい)」と一言。その後は「Pourquoi?Pourquoi?(なんで?)」と、眠さのためにほとんど開いていない目をきっと鋭くして何度も理由を問われ続けた。
「日本人を何人も泊めているけれど、あなたみたいにこんなに早く起きる人はいなかったわ。どうして?」
 彼女は本当に理解できないと言いたげだった。
「ごめんなさい、日本とリモートで会議をしなくてはならなかったの」
 しどろもどろになりながらどうにかそう言うと、おそらく今までそんなことをしている人もいなかったのだろう、オディールは思わず閉口し、「あなたの隣の部屋でも人が寝てるんだから、静かにね」と言い残して去っていった。
 そしてもうひとつ。
 わたしが週末アビニョンに出かけ、そしてリヨンにまた帰ってきた日のことだ。アビニョンはリヨンよりも南にある小さな街で、かつて教皇がいたため歴史的な石造りの建築物が多く残っている。なぜアビニョンに行ったのかというと、もうかれこれ10年来のフランス人の友人が、結婚を機にアビニョンにある彼の母親所有のアパルトマンに帰ってきていたからである。リヨンからアビニョンへは電車1本で行けるし、ついでだから会いに行こうと計画を立てたのだ。とはいえ平日は学校があるため、土曜日に行って日曜日には帰ってくるという弾丸旅行だった。
 そして日曜日。リヨンに戻ってきたのは夜の8時を過ぎたあたり。夕飯を食べていなかったわたしは適当にレストランに入ろうと思ったが、日曜日であることと時間が遅いことで開いている店は限られていた。さして食べたくもないものに高い金額を払うのが嫌だったわたしは、結局食券を購入するような店で安いヌードルを食べて家に帰った。
 帰ると、キッチンにオディールの姿があった。そして少し話した後に
「お夕飯はどうしたの?」
 と聞かれたので、
「駅の近くで食べたよ」
 と言った。その途端にオディールはバンっと、コンロに載っていたフライパンにフライ返しを投げて大胆に怒りを表現した。わたしはまったく事態が飲み込めず、目を丸くするばかりである。けれど続く言葉で、状況を理解した。オディールはわたしが夕飯を食べずに帰ってくると思っていたのだ。
「今日帰ってくるって言うから、ご飯の用意をしてたのに!」
 と心底納得がいかない顔でオディールは言った。
「でも、いらないって言ったよ」
 そう、わたしの記憶ではオディールに帰りは遅いから、夕飯はいらないと伝えたつもりだったのである。けれどもどうやら行き違いがあったらしい。ちゃんと言っておいた、という言い分もあったため、なにもそこまで怒らなくても良いではないかと多少理不尽に思ったけれど、きっとお夕飯の用意をし、さらに帰りが遅いわたしを心配して待ってくれていたのだろう。
 今思い出すと、本当にまるで家族のようなたわいもないいざこざばかりで笑ってしまう。国や言葉が違っても、母親の役目を担った人が怒る理由なんて一緒なのだと、わたしはこの一連の出来事を通して学んだのである。
「日本に着いたらすぐに連絡を頂戴ね」
 と、日本に帰る日、リヨンにいるわたしの第2の母は言った。
 けれど疲れていたわたしは日本に帰るや否やすっかり何十時間も眠りこけてしまった。
 何時かもわからない時刻にようやく起きて手に取ったスマホには、
「Megumi、ちゃんと日本に着いたの?」
 というメッセージ。
 ベッドからどうにかこうにか這い出し、寝ぼけた頭でオディールに送る文面を考えた。
 まさか大人になってまで誰かに口うるさくされる日が来ようとは思ってもみなかったけれど、あぁそうだ、家族とはこういうものだったと、そのあたたかさと煩わしさの両方を噛み締めたのだった。

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