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ほんの少しのお節介は、愛?悪?

見ず知らずの誰かに助けられた事は、きっと多かれ少なかれ誰だってある。
落とし物を届けてもらったり、迷子になってしまったら丁寧に道を教えてもらったり。

しかし、ここに子供が関わってくると、事態はシンプルにはいかなくなる。

今朝の情報番組で「道で泣いている女の子がいたら声をかけますか?」
というインタビューにほとんどの方々が「声をかけない」という答え。

理由は、こんな内容。

・誘拐などの冤罪リスクがある
・面倒な事に巻き込まれたら人生が破滅に追い込まれるから

「もしかしたら編集作業でそういう答えだけを集めていたのか?」そう信じたくなるほど、世の中の常識は、変わっている。

そんなに遠くない過去には、見ず知らずの人にいたずらを注意されたり、ご近所さんにおやつをもらったり、ほんの少し大人がするお節介があり、地域の子供たちのセイフティーネットがあった。


知らないおじさんやおばさんに、注意されて「うるさいなあ」と思いながらもなんとなく、温かさだけは感じていた。

その時代をデフォルトとして持てた事は、幸せだ。

だからこそ、同じ温もりを感じる世の中を次世代にパスしていくことが必要だと思う。

確かに不審な人がいたら通報したり、悪さを事前に食い止める予防線を張る事は必要だけど、「世の中が私服警察だらけ」と想像したら、息が詰まる。

いまの子供たちは、そんな世の中を察知している。だから、安全を感じず、無意識に自己防衛へのガードがかたい大人に成長する。

自己防衛は、大切だ。

しかし、とらえ方を間違えると敵か味方という白黒をつける考え方になり、グレーゾーンが持てない。

グレーゾーンこそ、社会の成熟を促すものなのに。

自己防衛には、2種類ある。

①相容れない他者を一方的に悪者にする
②自分を守りながら周りと共存する

①は、叩くだけの人。攻撃することで自分をまもる思考。
②逆にそうしないで事態を好転する方法を考える人。こちらは、負荷がかかるが、私服警察がいても、自分を守るスキルをアップグレードさせていけば、トラブルに巻き込まれる事も避けられるメリットもある。

でも、一方でこんな見方も。

叩かれるから手を差し伸べない人は、手を差し伸べられない人生を選び、困った人に手を差し伸べられる人は、自分が困った時には必ず手を差し伸べてくれる人に出逢う人生を選ぶ。

これは、同じ思考を持った人は、同じ思考の人に集まり、その中で生きていくという確率のお話。

資源のない狭い日本だからこそ、かつては見えない資源である「おもてなしの心」や「少しのお節介」がこの国の潤滑油としてしっかりと存在していた。

泣いている子供がいたら「どうしたの?」と声をかけ、周りに協力をお願いして助ける。自分が知らない人に助けられた様に。

見えない資源の歴史は、長い。途絶えさせてはいけないのだ。



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