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伏見憲明(2004)『さびしさの授業』の感想

伏見憲明の『さびしさの授業』を読んだ。理論社から出版されたよりみちパンセシリーズの一冊である。

わたしが子どもの頃、学校の図書室にあったら、うれしかっただろうな、という感じのタイトルが多いシリーズである。

子ども向けに書かれているので、気楽に読める。

伏見さんは、すべての人間は代替可能であり、だからこそ私たちは自分に意味づけをしようとするのだと指摘している。

人間は世界なしには生きていくことができません。そう、「私」は絶対に世界とつながらなくてはならない。「私」は世界の一部として生きざるをえないけれど、世界はけっして「私」の一部にはならない。p.26
つまり、「私」が世界の中で生きられる場所をすでに得ていたとしても、そこで生きる「私」は入れ換えることのできる存在にすぎないという、むなしいけれど、まぎれもない事実がそこにあるのです。p.124

思春期の頃は、自分が成功すれば、金持ちになれば、有名になれば、いろんなことが解決すると思っていた。何者でもないから、生きづらいのだと思っていたが、そう単純なことではないのだ。

日本は若者の自殺も多いし、有名人で食うに困らない人々が命を絶つこともめずらしいことではない。

自殺に対して肯定的な文化というよりは、「生きること」や生命そのものに対して全面的な肯定のない社会だという感じはする。それが日本文化なのか、新自由主義がもたらしたものなのかは、はっきりとはわからない。

職場で嫌味を言われたり、暗いニュースに触れるたびに、この世に生きることにうんざりする。しかし、遅かれ早かれ死はやってくるのだから、今急ぐこともないと思い直す。

伏見さんの結論には、なるほどと思えた。

だから、ぼくらはもっと日々の感情や、他者との交流に繊細になるべきでしょう。毎日を大切に生き、身近な人たちとていねいにつきあっていくことで、「私」は本当に必要とされる「私」になれるはずです。p.142

結局のところ、わたしたちは自分の近くにいる人と対話を重ねるしかないのだ。あげられるものがあればあげてしまえばいいのだし、出し惜しみをして損したなどと考えないほうがいい。

若い人に知っていてほしいことは、誰かに何かをあげて、その人からは何も返ってこないどころか、恩を仇で返されることもある。ただ、思いがけず、まったく関係のない人がプレゼントをくれることもある。情けは人のためならず、というのは真実で、そういう循環のなかで、われわれは生きている。

著者はあとがきで、「さびしさを手放さないことで誰かとつながることができるのだ」と述べている。

それはそのとおりなのだけれど、「さびしさ」は本当に厄介で、うっとうしい。そこを超越して、超然としていたいのだが、なかなか難しい。

ただ、わたしたちは結局のところ、主観的な世界を生きているにすぎず(主観的な世界を生きることしかできないので)、自分の裁量でいかようになるともいえば、なるのだが、感情に振り回されている。それを人生の醍醐味だと思えるようになるには、まだまだ時間がかかりそうである。


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