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【読書感想文#1】地球星人/村田沙耶香

こんばんは、都落ちニキです。

以前、僕の本棚には村上春樹の本しかないと語った。
だけど今週、ある作家さんとの再会があった。

たまたま蔦屋書店を徘徊していた矢先のことだった。

昔、大学生の頃だろうか。
僕は村田沙耶香さんの「コンビニ人間」という小説を読んだ。
人間臭さをも越えていくような展開にすごく感動したのを覚えている。

今回はそれ以来、2冊目となる村田沙耶香さんの本だ。

村上春樹さん以外の本が全くない、僕の本棚に新たに加わった一冊のこと。

【地球星人というタイトルを見て】

本を読む前、このタイトルをみて、まず初めに思ったことは、
我々人類、人間、ヒトと定義されるものは、
他の惑星の連中(もしそれが存在すればの話だが)から見たら、
他惑星の1物体なのであるのかということだ。
ひょっとすると月の住人、すなわち月星人もいれば、火星人、木星人、はたまた太陽星人だっているのかもしれない。

連中から見れば、僕たちだって得体の知れない生き物なのかもしれない。

という想像を膨らませながら、僕は本を読み進めていった。

(以下、多少のネタバレを含みます。
ご理解の上読んでくださると嬉しいです。)


【本を読み終えての感想】

まず一言。
「人間臭い」
という言葉に尽きる。

主人公である、奈月の視点を中心に物語は進んでいくが、
この奈月の視点がとにかく人間臭い。
少々、使い古された言葉だが、この言葉が一番しっくりくる。

読者(僕)からすると、心を見透かされているような気持ちにさえなってくる。

今、この世界は我々が人類として、人間として作り上げた”社会性”を元にして運営されているが、それはたまたま”社会性”を獲得した人類の主観であると思う。

けれどこの本を読んだ後、
超客観的にから見れば、人間とは所詮、一つの生物なのだと。
生物学上のオスとメス以外の何者でもないのだと、気付かされた。

この本を手に取って以降、新たな視点が僕の中に生まれたのを感じた。
街行くカップルを見ても、生まれた新しい命を見ても、やはりどこか生物学的なオスとメス、交尾交配、という感情が付き纏うようになった。

それと同時に、僕がする日々の行いなんて所詮、「社会性のある行動」という、どこかの誰かによって決められた行動にすぎなのではないかと。
自分の意思による行動なんて、ただのひとつもやってないのではないかと。

「人間」という生物としての行動や振る舞い、思想。
そこに含まれる、純粋さや醜さをとことん突き詰めている。
この本に感じた最も大きなポイントだった。

そういった意味で、「人間臭い」というワードを僕は感想として持った。

【感じたこととか】

奈月は少女の時代にいわゆる”トラウマ”を抱えていた。
人生において、毒親、家族、性交渉、性犯罪、殺人、人間関係などありとあらゆる人間関係のトラウマを抱えて生きてきた女性だ。
そんな女性を中心とした世界(=家族、親族間での極めて狭い世界)での物語だ。

このような主人公の背景は、現実の世界でも多く共通すると思う。

実際、世の中にはこういった過去の体験から、”普通の人間”から逸脱してしまった人は多く存在するだろう。
(それは相対的であり、社会的という枠の中で見た場合の逸脱)


僕はこの奈月の人生を、異常とは思えなかったし、間違っているとも思えなかった。

【結婚について】

出会い系で知り合った夫は、生活に対する条件が合致するから結婚した。
”人間”による社会的な圧力から、「結婚」せざるを得ない状況に置かれていた二人にとって、その出会いは好都合だった。
ただそれだけ。
二人は生活を送っていくが”人間”たちが強い圧力をかけてくる。

本書の内容を意訳しまとめたもの。

本書には、↑ようなシーンがある。(自己解釈です)

これは現実の世界でもかなり共通する部分だと思う。

「誰か嫁にもらってくれる人はいないの?」
「○○は結婚して子供もできたのに、あんたときたら、、、」

日々、この世界の至るところで発せられている言葉だと思う。

人間として生まれて、学校に通い、働いて、結婚をして子供を産み育てる。

これは、この世界で生きている限り、
僕たち人間としての共通目標であると感じる。

けれども、そんな社会に、流れに、あるいは圧力に、疲弊している人も多く存在するだろう。

実際に、昨今の世の中は、マッチングアプリが流行し、
一昔前のように「お互いを好きになって愛し合い、その先にある結婚」
という大流は少しずつ減ってきていると思う。

奈月と夫は、そういった世間の圧力から逃れるための結婚を選択したが、
現実世界にもそういう人たちは増えてきているだろう。


本書において、この一連の描写は、今の社会の風刺にも思えた。


【”やつら”から逃れるために (※ラストシーン描写あり)】

先ほど語ったような、社会のルールや風潮から逸脱した彼らは、同じような疑問を抱える、由宇という人物を加えて、”人間”たちからの逃亡を図る。
(由宇は奈月の親戚であり、彼もまた、毒親育ちだった。)
奈月はついに自分たちのことを「3匹」と呼称し、普通の人間ではないことを無意識に自覚をし始めた。ただの生き物としての「ヒト」になった。

本書の内容を意訳しまとめたもの。(これも自己解釈です)

山奥でひっそりと暮らし始めた彼らは、生きるために効率を考えた。
衣服の必要性に疑問を感じハダカで暮らし、
周りの民家の畑の野菜や冷蔵庫の中のものを盗んだ。

果てには”やつら”(外敵=外の世界の人間)の殺人、飢えからくる食人行為にまで発展した。秩序なんてない。


この辺りの描写は、本当に生物としての「ヒト」の行為をまざまざと体感した。
やっていることは他の生物である鳥や虫と何ら変わらないのだ。


ラストシーンでの彼らはきっとこんな感じだったのだろう。
餓鬼、と言われるこの絵も、日本では昔から描かれる妖怪だ。
飢饉が発生する度に、この餓鬼は色々な文献に現れ、その社会の風刺として描かれる。

人間社会から隔絶された彼らにとって、飢えを凌ぐのは簡単なことではなかったが、そこに「ヒト」としての最上級の”らしさ”が感じられた。

究極の飢えを感じた時、僕もカニバリズム的行為をするのだろうか。

【最後に】

「普通」とは。
「人生」とは。
「ヒト」とは。
と考えさせられる作品だった。

僕のやっていること、例えば朝起きて、歯を磨いて、会社に行って、働いて、食事をして、眠りにつく。
こんな一般的とされる行動は全て、自分の意思など存在せず、誰かに決められたルールなのではないか?と思う。

そしてそんな秩序を捨てた先にあった、生物としての「ヒト」としての行き着く先をまざまざと見せつけられた。
およそ普通とは言い難い奈月の人生は、「ヒト」という生き物の存在を改めて感じさせてくれた。

そこには存在理由などない、ただ生きることに執着した「ヒト」としての終着点があった。


【この記事の終わりに】

ここまで読んでくれた方、ほんとうにありがとうございます。
書評?は初めてで、読み返せば支離滅裂な表現になってしまっていますね。
だけど読書感想文的なのを書いてみたかった。

村田沙耶香さんの本は、コンビニ人間もそうなんだけど、人間としての「普通」のあり方に疑問を抱かされますね。

こんな風に、新しい視点や普段は気づかないことに気付かされるような小説は大好きです。


読んでて楽しかった。村田沙耶香さんの他の本も読んでみよう。

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