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機能不全家庭で育った中学時代4⃣

以前の中学生時代3⃣では、”ゆっ子”の事件までの話をした。今日はその後のお話。

人生で二人目の彼氏。テレクラで出会った、当時23歳の美容師《カズ君》と付き合っていた。当時の私は天然パーマで髪の扱いにはかなり苦労していた。そんな時にカズ君に出会い当時はまだ出始め?ぐらいの”縮毛矯正”を初めてかけてもらった。

本来縮毛矯正は、当時2.3万は当たり前にする施術で、中学生の私には、なかなか手の出ないものだった。その初体験の縮毛矯正の感動は今でも忘れない。そこから私の人生の中で、縮毛矯正は欠かせないものとなった。カズ君には感謝だ。

カズ君とは色々行った気がする。初めてのクラブもカズ君とだった。”クラブ初体験”は私にとって最悪の思い出になった。初めてのクラブで少し緊張気味だった私、皆はホールで踊っていた。カズ君に踊ろうと誘われるも、私は断った。恥ずかしさの方が勝ったから。そういう所は幼少期からずっと変わらない。

そんなホールで踊るカズ君やみんなを離れた所でぼーっと私は眺めていた。するといきなり、ふわっと私は浮いた。
知らない男に後ろから抱えられていた。次の瞬間、男は私を皆の踊るホールへ投げた。私は倒れこんだ。何が起こったのか一瞬理解できなかった。

ぶん投げられ、倒れこんだ私にカズ君が手を差し伸べ助け出してくれた。
それが人生最初のクラブでの出来事。その後の人生で2度クラブに行ったけど、やっぱり馴染めない場所だった。むしろ”嫌い”な場所になった。
そんな出来事があっても、私にとっては”平穏”な日々が少しはあった。

ある夏の日だった気がする。クーラーを使わないと暑くて居られないぐらいだったから。クーラーといっても窓に取り付けるタイプで、私の部屋にだけ取り付けてもらっていた。クーラーをかけても勿論、自分の部屋の扉は開けない。閉めっぱなしだった。

親父はというと、クーラーの利かない部屋で飯も食わず、酒浸りで寝ていた。そして、いつも肌着1枚で昔からあるよくある白い肌着。今なら”おかしい”事に気が付けるけど、当時はあまり気にも留めなった。親父の肌着が汗で黄色くシミになっていた事を。

でもその日はいきなり『お前だけクーラー使いやがって』と切れられ、親父は怒り出した。その怒りは止まらず、どんどんエスカレートしていく。私は”シカト”していた。その頃にはもう親父に対して”相手にしない”に近かっただろうか?そんな対応だった。

それが親父の逆鱗に触れたんだろうか、アイツは”刃物のような物”を持ち出した。あれは何に使う道具なのか、今でも分からない。形状は分かりやすく例えると、《金属で出来た象牙》みたいな物だった。先は尖り、人を刺そうと思えば刺せただろう。太さも直径5センチ程はあったんじゃないだろうか。

そんなモノを私に向け、向かってきた。私は狭い部屋の中を逃げた。そしてベランダから着の身着のまま逃げた。逃げる事に必死で、逃げた後の記憶がまた無くなっている。人間の記憶は都合が良いのか何なのか…。本当に20歳ぐらい迄の記憶はかなり抜け落ちてる気がする。中学の同級生に思い出話をされた時も覚えてない事が多かった。

いつ家に戻ったのかも、その後どう過ごしていたのかも、全く思い出せない。その事件後も家にはもちろん戻っている。私の帰れる場所は結局”親父の家”しかないから。

その夏の出来事から、しばらくして私の記憶は、一気に冬に変わる。絶対に忘れない。12月24日のクリスマスイブ。その日は私、ゴトウ、ゆかりの3人でクリスマスパーティーをしようと約束していた。私は楽しみにしていた。
その日の日中だった…午前か午後か記憶に無いが、まだ昼間だったのは間違いない。

12月24日…親父はトイレに行こうとし、そのままトイレの前の床に倒れこんだ。その倒れこんだ時の音で私は気が付き様子を見に行った。親父は唸っていた。とても苦しそうに…。私は少しパニックになっていて親父に救急車を呼んでいいか?と確認していた。親父は苦しみながら”『呼ぶな』”と言った。

呼ぶなと言う親父。でもどう見ても普通ではなく、私は親父の苦しむ姿を見ながら、救急車を呼んだ。そして病院へ運ばれた。救急車に私も乗ったんだろうけど記憶がない。気が付いたら私、親戚、兄貴が居た気がする。
医者から何の話があったのかは私は分からない。家に着いたのは夜だった気がする。

ゴトウとゆかりには親父が倒れたから今夜のパーティーは中止と伝えてあった。暗い家に一人で戻った私はどうしたらいいか分からず、カズ君に電話した。《親父が倒れた》と泣きながら話していた。

次の日12月25日の午前中、親父を見舞う為に兄貴と兄貴の彼女と私の3人で病院へ向かっていた。病院へ着き親父の所へ。すると親父は何か書くものをよこせと伝えて来たので、その当時使っていた手帳とペンを渡した。
手帳へ書いた言葉は、字にもなっていないヨレヨレの字で、最初は読めなかった。兄貴と何とか読みながら親父に確認し、手帳に書いた言葉は《ヤクショ ハヤク》とカタカナで書いたものだった。

やくしょ?当時の私は意味が分からなかったが、今なら分かる。生活保護だった為に、役所へ直接金を受け取りに行けって事だったと思う。
そして、兄貴と私は帰宅する事にした。そして帰宅中の車の中で私の携帯が鳴った。病院からの電話だった。

私は病院からの電話の内容を兄貴に伝えた。《今すぐ病院へ戻って下さい》と…。本当に当時の私は感が鈍いというか、その意味も分からず、ただ言われるがまま病院へまた戻るの?と、ただ不思議に思っているだけで、病院へ戻ってこいという、”本当の意味”を分かっていなかった。

そして病院に着くとまた親父のが居る部屋へ向かった。
そう、さっきまで意識があったはずの親父が危篤状態になっていた。
親父はそのまま息を引き取った。12月24日に倒れ、12月25日には死んだ。
あっという間の出来事だった。親父は死んだ。


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