味覚と嗅覚の話

五感の内、どれかひとつを残せるとしたらどうするか──。哲学の授業でそんな話題が出た。視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚。どれかひとつを選ぶことは、当然、残りの四つを捨てることを意味する。

これまでに「視覚と聴覚のどちらを選ぶか」という質問ならされたことがあるけれど、さすがに五感に序列をつけるというのはやったことがない。自分なら、上に書いた順番で、視覚が一番、最下位には嗅覚を選ぶ。

そのとき扱ったのは、フランスの哲学者コンディヤックだった。彼もまた、嗅覚を一番低いものとみなす。これに対して生徒からは「でも嗅覚が必要ないって言えるでしょうか」という意見が出ていたが、先生のレスポンスは
「必要ないとは言いませんけど、どれかひとつですよ。他の全部を差し置いて『どうか嗅覚だけは取らないでください……!』あるいは『お願いです、味覚だけは……!』って、どうですか。想像しにくくないですか。味覚とか嗅覚は、五感の中での優先度は低いという感じがしますね」
とのことで、話は下位の二つの感覚に移った。

「いま、嗅覚にはすごく厳しい社会になっているでしょう。デオドランドな、というか。昔はもっと臭い人がたくさんいて、朝シャンなんていうのはありえなかったわね。香水のキツい匂いとかは別ですよ……。その一方で、味覚に対してはえげつないまでに貪欲な世の中になっている。あっちの店がおいしい、こっちの店はダメだ……。この差はなんですか」

そう問いかけられて、言われてみればなんなんだろうと思う。臭うことはひどく嫌われて、無臭を求める一方で、おいしいものを追求するのはそれほど嫌われていない。嫌われていないどころか、積極的になるのが人生の楽しみのように言われている。味覚の追求はよくて、嗅覚には冷たい世の中。人の体臭はバリエーションに満ちていたところで価値はないけれど、味の選択肢は多いほうがよくて……。この差はなんだろう。

考えてみれば、嗅覚は受動的なもの、つまり漂ってくる臭いをかがされることが多いのに対して、味覚は能動的だという違いはある。わざわざ手を動かして、口に食物を入れなければ味覚は機能しない。人から押しつけられるのは嫌だけど、自分から迎えに行くものならオーケー。そんな風に聞こえる。

そういえば、受動喫煙なんかにも昨今、厳しい目が向けられているから、受動○○というものは、この先もっと嫌われていくんだろう。それと反対に、能動的な快楽の追求は、どこまでも許される世の中になるのかもしれない。感覚における選択の自由。そんなことを考えた。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。