見出し画像

世界の分類

分け方には人柄が出る。見るものをどう分類するか。気が合う人と合わない人で分けるのか、女性と男性で分けるのか、無機物と有機物なのか、あるいは私とそれ以外なのか。多和田葉子の『エクソフォニー 母語の外へ出る旅』を読んでそんなことを思う。

フロリダ大学でレクチャーをした時、「日本では、日本文学と世界文学という区分けをするそうですね。そういう分け方をどう思いますか?」という質問が出た。(…)確かに言われてみると変だ。この分類の仕方だと、世界の一部が日本なのではなく、世界は日本の外にあることになってしまう。

いわれてみれば「世界」の中に日本がカウントされていないのはおかしい。でもそんな視点、いままでに意識したことがなかった。日本語の「世界」は、多分に「海外」という意味で使われるからそのニュアンスなのだろうけど、初めて見た人はキョトンとするだろう。

ドイツでは分け方がちょっと違っている。たとえば、現代作家についての情報をファイル式に次々と追加していく現代文学辞典があるが、ドイツ語文学と外国語文学という分け方になっている。(…)
ドイツ文学と言ってしまったら、オーストリアやスイスが入らなくなってしまうし、ドイツ語で書いているトルコ人やチェコ人やその他大勢の文学はどうなるのかという問題が出てくる。

なるほど。多言語、多民族が入り乱れるヨーロッパにはそういう事情があるのか。それなら同じ作家であっても、ドイツ語で書いたものはドイツ語文学に収録され、他の言語で書けば外国語文学に分類される。実際に多和田葉子も、日独2言語で書くため両方に掲載された。国ではなく、言語による分類。

ちなみにこのエッセイによると、北アメリカ大陸では人種での分類もあるらしい。「有色人種文学」、つまりアジアもアフリカも一緒くただ。彼女がこれを書いたのはもう二十年近く前だから、今は廃止されているかもしれない。それにしても北アメリカの人種問題って、根が深いんだろうなと思わされる。

ドイツも同じ西洋ではあるが、こちらは少し事情が違って、肌の色による境界はそこまで意識されない。多和田葉子いわく、ネオナチに狙われるのはポーランド人やユダヤ人、ロシア帰りのドイツ人が多い。この国で、人種を分ける発想はあまり現実味がない。

何年か前に留学したとき、ガイドブックには「外国人嫌いの人もいるから気をつけて。ナチスのマークを着けていても向こうから手出ししてくることは稀ですが、こちらからちょっかいをかけた場合、その限りではない」と書かれていた。幸いヘイト被害には遭わずに帰国できたし、なにせソーセージがおいしかったので、ドイツに悪い記憶はない。人種よりも、言葉が話せるかどうかが大きなファクターになっているのを肌で感じた。北アメリカとはそのへんが違う。

もし自分が読んだものを分類するなら、すごく主観的な分け方になりそうだ。女流作家とか外国語文学とかそんなんじゃなくて、「料理がおいしそう」「怖い」「ほっこり」「奇想天外」「リアル」みたいに。奇想天外で怖い話はどうするんだ、リアルで料理がおいしそうだったらどうなんだ、と言われるとちょっと困る。それはまあ、全部に載せたらいいんじゃないかな。

今日は多和田葉子のほかに、連続殺人鬼の木嶋佳苗を題材に取った小説『BUTTER』を読んでいた。大柄で料理好きな彼女を扱ったために、グルメな描写が多い。これはリアルだし怖いし食事のシーンが印象的だし、分類者泣かせの一冊になる。本屋では「新潮文庫:日本の作家」に分けられていた。

日本と世界、ドイツ語と外国語、有色人種とそれ以外。分け方ひとつ取ってもお国柄が出るのが面白い。世界の分類。

引用:多和田葉子『エクソフォニー 母語の外へ出る旅』岩波書店、2003年、82~85頁。

https://booklog.jp/item/1/4006022115


この記事が参加している募集

推薦図書

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。