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#眠れない夜に

 眠れない夜はいつも寄るべなくて、終わらない暗闇に閉じ込められているような気になってしまう。ひとたび眠りに就いてしまえば、この重い意識からも解放されるのに、不眠の夜が続く。

 そういうとき、目を覚ましているのは私じゃなく、夜のほうなのだ。そういうことをレヴィナスは言った。私が起きているのではなく、夜が目を覚ましている。不眠の暗闇の中で目覚めている。そこにいるのは「私」という。名前のある主体じゃない。たくさんの名前のないざわめき、名付けられない考えの数々が散らばっている。

 彼の表現はどれも独特で捉えづらいけれど、いま読んでいるテキストを訳すとこうなる。

 実存の、広がっていて名前がなく避けようのないざわめきは、とりわけ眠りが私たちの願いにこたえず、すり抜けて行ってしまう瞬間に顕著だ。それを引き裂くことができない。起きている理由なんて何ひとつないのに目が覚めている。どうしようもなくそこにいるという剥き出しの事実が圧迫してくる。ひとには存在が義務付けられているのだ、存在するという義務。
(…)
 目覚めには名前がない。私が眠れないことのうちで夜に目覚めているのではなく、夜そのものが目を覚ましているのだ。そのことが目覚めている。私が完全に存在へと晒されている目覚めの中で、不眠を満たすあらゆる思惟は無という宙に吊るされている。そう言ってよければ私は、無名の思惟の主体であるよりむしろ対象なのだ。

 眠れない、という事実の前で、私たちは手も足も出ない。どこかに足をかけて登るわけにはいかなくて、手を伸ばせば届くようなものでもない。無の中で宙吊りになっている。私が何かを考えるのではなくて、考えている何かのほうが私を掴まえに来る。眠れない。

 夜って余計なことをあれこれ考えてしまう。昼間と違って用事を作り出して動くこともできない。お風呂に入って寝る準備を済ませて布団の中にいて、もうやることは何もない。あとは寝るだけ。でも眠りが訪れない。
 極端な言い方をすると、生きているのを持て余してしまうのってこういうときだ。存在を中断することができない。あなたは存在していなくてはならない、起きていなくてはならない、と言われる。誰に言われるのか何に言われるのかわからない。存在することへの強制。

 「眠り」はフランス語で「sommeil(ソメイユ)」と言う。否定のinがついて「insomnie(アンソムニ)」、「不眠」「眠れない時間」になる。レヴィナスが先のテキストにつけた節のタイトルは、定冠詞の「l」がついて「L’insomnie(ランソムニ)」。
 フランスにも眠れない人がいるんだ、と当たり前の事実を思う。ドイツ語だと「schlaflos(シュラーフロース)」、眠りを失うってニュアンスの言葉がある。英語「sleeplessness」。世界各国、今日も眠れない人がいて、それを示す単語がある。

 「よく眠れた?」という、よく聞くあの質問について考える。それは「体調はどう?元気?」くらいの意味が込められていて、私たちはよく眠れるのをいいことだと思っている。実際のところ、人の体は多少眠らなくても動けるらしい。効率至上主義の人はたいていショートスリーパーだ。彼らにとって寝ている時間はムダである。

 それでも私たちは言う。よく眠れた?それはよかったね。眠れなかった?それはお気の毒に。

 眠りはときどき死に喩えられる。二度と目を覚まさないのを「永眠」と言う。安らかな眠りは安らかな死に似ている。そんなことを考える。存在から解放してくれるという点で、眠りは死に似ている。完全には解放してくれないけれど、寝ている間は存在の重みを忘れられる。だから永遠に寝ていたい、と願う人の気持ちはよくわかる。存在の義務から逃れ出ること。

 眠れない夜がもっと眠れなくなるけれど、エマニュエル・レヴィナス『実存から実存者へ』には、そんな文章があります。不眠の夜の話。

https://honto.jp/netstore/pd-book_02619313.html


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本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。