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私が持っていないもの

 出産して1週間ちょっと経つ。義理の両親は、産院にいるあいだに孫の顔を見に来た。ふたり揃って仲良く。

 離婚した実の両親のほうは、いまだにどちらも顔を出さない。ふたり揃うことは離婚以来なかったし、これからもないだろう。
 
 別にそれでいいと思っていた。そんなものだと考えていたから。
 
 義理の両親は、旦那さん曰く「仲が悪くて喧嘩ばっかりしてるわ」。旦那さんの弟曰く「うちの両親見て『結婚したい』思うか?思わんやろ」。つまりは特別仲がよいわけではないらしいのだけど、それでもこういうときには、二人揃って行動する。
 
 入院した部屋で、二人は片隅にあるソファに座り、二人で赤ちゃんを覗き込んだ。かわいい、とか、耳の形は完全に僕の遺伝やわー、とか言う。そこに旦那さんも加わって、交代で赤ん坊を抱っこし、なにかしら話しかけている。
 
 それは誰がどう見ても微笑ましい光景で、3世代の最も幸福なあり方に見えた。自分の両親はこうはなれなかった。「おじいちゃんおばあちゃん」という、二人一組の存在としてここにいない。父は退院後に行くと言ったが、母親は孫の顔が見たいとも言ってこない。
 
 目の前の幸せそうな光景に、3人から離れたところで少しだけ泣いた。こうはなれなかったんだ、うちの家族は。
 
 退院して、赤ちゃんに授乳していると、ときどき旦那さんも隣りに来て子どもを覗き込む。赤ん坊の両目を見ると、ふたりの大人が映り込んでいる。父親と母親が並んだ姿。
 
 自分のときはどうだったんだろう。激務の父親が、どれだけの回数、授乳に立ち会ったっていうんだろう。ふたり赤ちゃんの前に並ぶなんてことあったんだろうか。
 
 両親はふたり、子どもたちをかわいがってくれたけど、それはいつもふたり別々のやり方で、一緒に何かをすることはなかった。父は父であり、母は母であり、ふたりが親として揃うシーンは、ほとんどなかったように思う。
 
 自分が見られなかった風景。なくても困らないと思っていたもの。でも目の当たりにすると、その幸福さに目が刺されるような光景。自分にはなかったものを、延々と突きつけられる。
 
 産後ウツでもなんでもないのに、泣いている時があるのはそれが理由だ。子育てが辛いのでもない、頻繁な授乳で睡眠不足なわけでもない。家事は旦那さんがやってくれる、一日延びた退院の費用は義理の父が出してくれた。苦しいことは何もない。悲しい時があるだけで。
 
 自分になかったものを、娘には与えられるんだからよかったじゃないか?それを母親として喜ぶ気になれないのか?と訊かれたら、なれない。自分と同じように始めから奪われているなら、最初からこんな気持ちにならなくて済んだ。
 
 産院で助産師から「(顔かたちが)似ていますよ」と言われた。ときどき自分でもそう思う。赤ちゃんの顔を見てから、ふと鏡の前に行くと、なるほどどこか似通った顔が映る。似ているな、とは感じるけど、特別喜ばしい気にはならない。
 
 「自分の」子どもだと思っていたら、お世話も続かないんじゃないかと思う。最初から、この子は「旦那さんの」あるいは義理の家の子どもだと、なかば自分に言い聞かせている。「私の子どもだから」かわいい、と思う人の気持ちを、自分はよく理解できない。
 
 旦那さんはたまに「子どもかわいいか?」「かわいがれるか?」「君の子やで」と言う。そう言わなければならないような、奇妙な雰囲気でも出ているんだろうか。殴りも蹴りしていないし育児放棄もしていないけど、それ以上の愛情が見られないのだろうか。
 
 自分がやるとしたら、虐待よりネグレクトのほうがありえる。子どもを一人置いて、ふらっと家を出てしまうような。そうはならないことを祈っているけれど。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。