世代を超える呪いのような

「現実を見ろ」と言われて育った人間は、他人にもそう言いたくなるものだ。とりわけ、自分の子どもにはそう言って聞かせるだろう。うちの父親もそうだ。お前は庶民の子に生まれたんだ、贅沢を言うな、社会っていうのはそういうものなんだ……。昔からそんな台詞を繰り返している。庶民だろうが皇族だろうが、贅沢をしたければすればいいと思っている自分とは、時として考えが対立する。どうして父はああなんだろうと漠然と考えていたとき、次の文章を読んだ。

たとえいい子で、成績が良くて、スポーツもできたとしても子どもは気づいている。これを維持し続けないと愛されないのだ、と。
そんな君はずっと苦しかっただろう。親はありのままのその子を愛してあげるべきだった。でも、それは親にだって難しいことだったのかもしれない。だって、親自体がそのまた親の期待に応えないと愛されないというプレッシャーに苦しんできたのだから。条件付きの愛しか知らないのだから。  
(若林正恭『ナナメの夕暮れ』文藝春秋、2018、p.53)

父もまた、親からそう言われて育っていたのかもしれない。人生に多くを望むな、と。「社会っていうのはそういうものなのだ」と言われて理不尽なことを受け入れ、贅沢は無駄だと信じて生きてきたのかもしれない。もしそうなら、子どもの自分にも同じことを言ってもおかしくはない。だって「お父さんは理不尽に耐えたけれど、それは間違っていた。お前にはそんな思いはしてほしくない」なんて口にすることは、父にとっては自らの生き方を否定することに等しい。

「いい子」の父親を思い浮かべてみる。

「お前は庶民の子どもに生まれたんだ」と祖父に言われて、贅沢を諦める、幼い父の姿。食べられなかった豪勢な料理や、買ってもらえなかったお菓子の前で「俺は庶民の子どもなんだ。贅沢なんか似合わないんだ」と思っている父親の姿。それはどれくらい悔しいことなんだろう。あるいは、毎晩11時過ぎに帰宅していたという若い頃の父。「社会っていうのはそういうものなんだ」と言われて、会社に使い潰される父。それが大人になるということなんだ、これで自分も一人前なんだと自分に言い聞かせている、スーツ姿の父。

想像するにつれ、だんだん悲しくなってくる。

そして彼は大きくなって自分の子どもを叱る。「贅沢を言うな」「社会っていうのはそういうものなんだ」……。子どもが自分の叱責を受け入れれば、自分の生き方は否定されずに済む。だから彼は望んでいる。子どもが自分と同じように人生を歩いて行くことを。かつて自分がそうであったような「聞き分けのいい、いい子」であることを。

以上はあくまでも私の想像だ。別に父にインタビューして構成したものではない。買ってもらえなかったお菓子があったのかは知らないし、激務の仕事を楽しんでいたかもしれない。だけど、親もまた、その親の影響を受けて育っているのだという(考えてみれば当たり前の)事実は、父について思いを巡らせるきっかけになった。残念ながら、私はいい子にはなれそうもない。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。