「思想のふるさとは、騒がしい雑踏だ」

タイトルは長田弘の詩「ギリシアの四つの言葉」(『食卓一期一会』)から。

思想のふるさとは、騒がしい雑踏だ

ソクラテスを思い出す一節である。生涯で一冊の著作も残さなかったソクラテス。会話による哲学を重視し、アテネの街角で誰かを捕まえては議論に参加させた。太陽の照り付ける古代ギリシャで、トガを身にまとい、哲学的対話に周囲を巻き込む哲学者。そんなイメージを想起させる。

そう、意外にもソクラテスに著作はない。だから今、彼の言葉として知られているものは、多くが弟子のプラトンによって書かれた。書かれた言葉は死んでいると考えたソクラテス、師の言葉を後世に残そうとしたプラトン。師弟の哲学的態度は大きく異なっている。

東洋の伝統の中には「話し言葉のほうが生きていて、書き言葉より優位だ」という思考はあまりないが、西洋はスピーチを重んじる文化圏である。話し言葉の地位は東洋より高い。私は「書かれたもののほうが吟味されている。信頼性がある」くらいに思っていたので、これを知った時は洋の東西の断絶を感じた。

東洋思想のふるさとはどこだろう?やっぱり孔子の『論語』のような対話だろうか。思えばブッダだって、弟子との問答を重視したわけで、あらゆる思想や哲学は、話すことから生まれるんだろう。とりあえず論文を書いて文章に落とし込む現代のスタイルは、ひょっとしたら哲学の本来のスタンスからは程遠いのかもしれない。

英語で「対話」を意味する dialogue(ダイアログ)は、ギリシャ語の「交差する(dia)」、論理や言葉を意味する「ロゴス(logos)」から来ている。交差する言葉や論理。つまり普通のおしゃべりではなく、知を持ってする対話。今では普通の「会話」という意味ももっているけれど、dialogueは基本、問答とか対談とか、ちょっと知的で議論っぽいニュアンスがある。普通の会話は conservation(カンバゼーション)。こっちだと「会話術」とか、話の巧みさ、スキルにつながっていく感じ。哲学の対話は dialogue であるべきだろう。

そんなことを、詩の一節をもとにつらつらと連想して書き綴ってみる。「勉強して何が楽しいの」みたいに言われることがあるが、それは世界が広がるからだよ。詩の一行からどんどん連想が広がっていくのは、その背後にある世界を想像するだけの知識があるから。それは勉強した人にしか見えない。もっとも、そういうことを言うと「頭いい人ぶっちゃって」と嫌われることもあるんだけど、そうじゃない。私は「ここからこういう風景が見えるよ」とシェアしたいだけなのだ。インスタグラムに夜景の写真を上げるのと同じくらいの気持ちで。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。