健常で健康、それって何

「健常である」ってなんなんだろう。一度も障害者に分類されたことのない自分が、それでもそんなことを考えている。当然のように「健常者」であれば抱きようがない疑問を抱いてる。

体が弱い。車酔いが激しく、(極私的な話で恐縮だけど)生理痛も重い。特にお腹に来る。しばらく電車に揺られるだけで吐きそうになるから、少し遠くまで行くときには、一駅ごとに降りて乗って、生理が来た一番ひどい日には、お腹に手を当ててずっと寝ている。

だけど、それらは単に「体が弱い」という欠点であって、どうしようもない。健康と健常は違うらしい。健常者だけど健康じゃない、というのは、健常者のくせして使いものにならない、という、救いようのない事実になる。少しの揺れで吐きそうになって、降りた駅で一人ホームに座っていると、自分の体が普通じゃない、普通より弱いことをひしひしと実感させられる。それでもそれは「障害」とは違う。

「障害者」というときの「障害」は、「社会との間にある壁」を指すらしい。つまり、社会が高くしているハードルのことを障害と呼ぶのであって、「障害者」と呼ばれる人たちの側にある言葉じゃない。それなら自分はどうなんだろうか。社会との間に、ハードルなんて何もありませんと言えるほど、健康で健常者だろうか。

自分の家族はどうだろう。亡くなった兄が頭に浮かぶ。兄は小学生の頃、病的に背が低かった。小学校の高学年になっても、140cmあるかないか。病的だということはすなわち病気であり、兄には「低身長」という診断が下された。それで毎日、身長を伸ばすために薬を飲んでいた。亡くなる直前には160cmをオーバーしていたから、薬はそれなりに利いたのだと思う。

…………。

「病気」ってなんだろう。背が低いことは病気なんだろうか。「健康」とか「健常」ってなんだろう。それはひょっとして「そこから外れたあなたは異常です」と宣告し「あなたは生まれつき欠点があるから治しましょう」と優しく脅す言葉だったりしないか……。

こんな自分だから「健全な精神は健全な肉体に宿る」と言われるとゾッとする。「健全な肉体」をそもそも持っていなければ、「健全な精神」も一生、手に入らない。そう言われてるみたいだ。体が弱かったら、社会と違っていたら、「平均」や「理想」と病的にかけ離れていたら、それ自体が治療の対象なのだ。そう考えていくと「健常」と「障害」の境目はどんどん揺らいでいく。誰が病気で、誰は病気じゃないんだろう。この世に障害のない人なんているんだろうか……とか。

上に挙げた台詞の原文は、本当は「健康な肉体と健康な精神、両方もっていれば完璧なのに!」という、祈りであり歎願だったらしい。つまり仮定法。それを誰かが「健全な精神は健全な肉体にこそ宿る」と書き換えた。なんのためにそんなことをするんだろう。一説によるとこのスローガンは、ヒットラー率いるナチス・ドイツが軍人を賛美するのに利用したらしい。

健康で健全で健常、「健やかさ」をめぐる話は、いつもそこから外れたもの──異常や不健全、障害を必要とする。誰かが輝いているためには、誰かが影に入る必要がある、そういう理屈で。本当は、そのどちらでもない状況がたくさんあるはずなのに。

言葉はとても便利だけれど、人を区分けし分別しようとする、怖い側面も確かに持っていて。今日はそんなことを考えている。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。