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『完全無――超越タナトフォビア』第百九章

ところで、答えることに意味を持たせない何ものか、それこそが世界という名をほしいままにしている当の不可思議なのだが、その解答不可能性に賭けてみる、という凛とした意義を哲学的に見出そうとする人間たちという存在者には隠微なほどになまなまとした熱狂があると思わないだろうか。

あらかじめ「ない」という「不思議ちゃん」に対して、理性と感性とのせめぎ合いの中で思惟を織り巡らせ、人間たちは歴史的に悩み、苦しみ、かなしみ、いとおしみ、うろたえてきた。

歴史上最強クラスの苦難といえば、タナトフォビアかもしれない。

一部の人間たちは死を不可解、不条理なものとして恐れる。

片目を抉り出された背教者のその背を這うような虚無、死の発作的・暴発的恐怖症は一部の人間たちを存在論的、形而上学的に発狂させる。

意識の連続性を失う、というイマージュがその人間の魂全体を無化するようなパニックに対して刹那的に戦慄する、というパターンもあるだろう。

存在論的にハイリー・センシティブなタナトフォビアの人間たちに告ぐ。

タナトフォビア的人間たちよ、完全なる絶望を得よ、それが完全無である。

タナトフォビア的人間たちよ、完全なる希望を得よ、それが完全無である。

喜びと悲しみを同時に知るがよい。

生を最高度の密度で讃えると同時に、死を最高度の密度で讃えよ。

なぜなら、生も死も完全無という「原約」には全くもって含まれることはあり得ないからである。

むしろ激賞せよ。

あやかしである生と死を誉めちぎれ。

生や死はおろか、あらゆるモノやコトは滅されることなく、すでにして完全に無である。

しかし、人間たちはこのように言うだろう。

「今」というこの瞬間だけは疑い得ない、ありありとしつつもはかなく雲散していく存在なのだと。

「今」という現在性は、動的無限性として、あるいは無時間的に完結するダミーの有として生起と消滅を同時に成し遂げているのだと。

だがしかし、もうすべては起きている、などというフレーズはたくましいほどに頽落した呆けであり、起きるためのあらゆる事象が存在しない、という気付きからはおよそ距離の全体すら見いだせないほどの懸隔によって、その交通を阻まれているのだ、と強く言わざるを得ない。

すべての可能性はもう起きているのだから、もう完全に何もないのである、というわけではなくて、可能性そのものが約束された試しは世界そのものにはないのである。

あらかじめすべての可能性はもうないのだから、何もかもすべて起こることなく起き切ってしまっている、というわけではなくて、「起きる」ということがあらかじめ不可能事なのである。

自由意志があるとかないとか人間たちが議論するその姿も、すでにして終わることなく終わり切ってしまっている、というわけでもない。

なぜならば、自由意志があろうとなかろうと、世界の完全無性に関与できる意志など見付けることはできないからである。

だが不思議なことに、世界にはいろいろな意味で幅があり、その諸々の幅のなかで、あれこれと思考している人間たちという幅を発見することができるだろう。

若干、穿った見方をするならば、狐族のきつねくんとしては、人間たちのおよそおおらかで無邪気な幅的な生き方は、ほほえましく尊い生に思えなくもない、ということ。

わたくしは本来的に人間嫌いではない。

どうかほほえましく愚直にその生を生きてほしいとは思っている。

人間たちがゲノム編集によって遺伝子を操作するように、因果関係を操作・編集してくれる地球外高度知的生命体を想起して、彼らに救いを求め、遠く遠く礼賛する人たちのことを、無意味だからやめておけ、などとは狐族のわたくしからはとてもとても言えない。

完全無の世界なのだから、何をしたところで、すべては起こることなく起こってしまっている、ということではない。

生起することなく、無のステップを踏んでしまっている、と表現してみても、それはちょっと浅はか。

自然としての人間が成すことも含め、あらゆること物事は起こることなく起き切ってしまっている、というありきたりな発想は通用しない。

なぜ、物事的な何ものかが起きている、と感じられるかというと、人間たちの特殊な奇跡、それを本来的な属性としての能力と呼べるかどうかは定かではないのだが、ともかく、ダミー・ワールドを無と有との超越論的往還として成立せしめるポテンシャルを秘めていることは確実であり、人間たちの立場から語るならば、物事は起こってしまっているのだが、つまりそれは、必然的な歴史的ハプニングとでも表さざるを得ない特殊なパニックとして世界が存在し切っている、と類推するほかない、という驚異なのである。

起こってしまっていること(それは、「ある」ということばとどうしてもどこまでも深く共鳴するのだが)とはどういうことなのか、と人間たちの立場になって応じるとするならば、それは「ゆく河の流れは絶えずして」式の、いわゆる変化としての流れそのものとして世界を捉える、ということであり、要するに、動的無限性の世界を夢見る価値観のことであろう、という推量に堕してしまうということ。

しかしながら、動的無限性とは完全無では「ない」のである。

一見すると、完全無には無限という属性(しかし、それは動的無限性ではなくて、完全静謐性としての無限ならば、という条件付きではあるが)もしっかりと当てはまりそうなものであるが、ニセモノの無ではない完全無においては、そもそも属性というものが存在し得ない、ということを鑑みるならば、ことばではない体感・体験としての無であるから、何をどのように定義しても無意味ではあるのだが……。

ということは、驚くべきことに、完全無には完全無という属性は存在しない、という帰着点に至ることになるのである。

とある人間の中で、すべての宗教学が無効化されるのは、その帰着点が身心脱落以上の、真のタナトフォビアという超越的パニックに把捉されたときだろう。

祈りを供えることで救いの御手が頬に触れるのであれば、その慈悲深き可能性の神性というまやかし(それは、無と有との戯れ、すなわちニセモノの無というバイアス)に賭けてみることも、その場しのぎの救済としては若干の有意義性とはなるであろうが。

しかし、わたくしは完全無と出逢ってしまったのだ。

触れることなく。

超越そのものとして。


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