見出し画像

『完全無――超越タナトフォビア』第九十七章

なぜ「何か」があるのか、ということの答えとは、要するに完全無と完全有との齟齬が根源的に関わっている、というそのことであろう。

なぜなら、完全無という世界こそが主体的に「何か」である、という言い分だけを取り出してみせるなら、それは極めて粗暴かつ奇天烈な定義だと勘繰ることができるからだ。

完全無であれ、完全有であれ、主体になる何ものかを定義することは実はとてつもなく不可思議な行為なのだ。

それは、もとより状態や性質をあらわすことが世界そのものにおいては不可能であること、とリンクしている。

「世界の世界性」とは性質無き性質であって、ことばであらわす際の仮の名として完全無という概念無き概念を、世界そのものからちょっとずれたものとして表示するしか方途がない、とも言えるだろう。

さらに、完全無とは申し分なく客体になることのない世界性である。

対義語関係・否定語関係を超えている、ということは、その「無体」性を意味することに他ならないのだ。

主語にも述語にもなり得ず、対義語・否定語を持つこともなく、人間たちには想像し得ない完全無、その文字面をただ眺めやるだけではなくで、文字を超えて、とりあえずは合一、その後に滅却すべし、と今のわたくしは言わねばならないだろう。

究極の問いに対してことばのみで答えたとしても、それは精確な姿を描出したとは言い切れないだろう。

完全無を単なる論理学的な答えにしてはいけないのである。

もとより人間たちの問いというものは、人間たちにしか通用しない「人間的スケール」の言葉遊びのようなものだ。

完全無そして完全有とは、ただの表記的な便宜に過ぎないのだが、どうしても人間たちは文字のゲシュタルトからあれやこれやと想像を逞しくしがちであり、その思考のみによって解決を図ろうとする浅ましさに陥りがちである、ということ。

たとえば、無と有とを何かこう離れたもの、互いに迂遠なるもの、として捉えてしまう、ということも文字のゲシュタルトに対する安易な執着に過ぎない、と言える。

そして、ほんとうに同じものは、合一することはできないのだ。

弁証法的運動など起こりようもないのだ。

なぜならば、完全無と完全有には何らの差異など無いのだから。

さまざまなる物事のありようはすべて、無的に移ろい、無的に流れ、無的に変わってゆく、というその方面を人間たちは知覚し、感取し、認識し、それをもとにしてあれやこれやの判断を下すのだが、それら無的なる個別の体験のすべてが全一的に世界のありようのすべてを決定している、というわけではなく、無は決して有と分有線を持たぬ、というわたくしの定義通り、完全有という方面は、実のところ完全なる無なのであるから、人間たちが使用する「ある」ということばをすべて「ない」に変更する手続きを踏まねばならない、ということなのだ。

完全無-完全有という表記から世界をイメージするときに人間たちに付きまとうのはおそらく円環性であるが、そういった紛らわしさを省いていこうという趣旨で、前々章(第九十五章)より、完全無というハイフネーションによる連結無き一語の表記に改めた、という次第である。

わたくしがこの作品において完全無-完全有と表現したとしても、それはイコール完全無のことなのだ、と理解してほしい、ということ、ただそれだけのことである。

人間たちにとっては、有すなわち「ある」という概念がどうしても必要不可欠であるという日常世界的な、社会的・常識的な、間主観的な了解性という枷があるのは重々承知している。

「ある」という概念を使用しなければ滞りなく生活を送ることなどできない、ということも心情的には同意を示さざるを得ない。

しかし、完全無の「無」性は――あっらかじめすでに――無的に凶暴であって、無的な浸透力を存在以前性として持ってしまっているのだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?