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『完全無――超越タナトフォビア』第百一章

西田幾多郎の哲学における「絶対無」のような無の場所としての動的無限性の極地、それは人間たちの想像できる得る範疇にあるが、世界そのものとはそのような動的無限的イメージに陥ることも許さず、さらに動的無限性だけではなく有限性という内包性すら亡き者にする完全無なのである。

そのことゆえに、世界そのものは完全に無なのであり、絶対無の場所ような動的かつ曖昧な存在論とは微かに違うのだが、近似的な文字面だけに囚われてはいけない。

そのわずかの差異が甚大なる両者間の隔絶を惹起することに注意しなければならない。

動的ではあり得ない完全無、それしかないのである、世界とは。

完全無の文字だけを見るだけでは駄目なのだ。

完全無を超越的に踏みにじるために、まずもって無的に感じなければない。

それは、ニセモノの無を安易に体感することではない。

決して想像できない無を超越するという荒業に果敢に挑み続けなければならない、ということなのだ。

ただの一度であれそのような体験に陥れば、あらゆる度合いのタナトフォビアすら無効化できるほどの認識論的かつ存在論的大転回は完成するだろう。

日常生活において文字を想起するだけでは不十分である、ということ。

事あるごとに、完全無としての世界そのものを想起しようとすること。

思考実験的に頭の中だけで完全無と親しもうとするだけではなく、身体を動かす生活そのものに対しても無的な音や香りに触れようとする習慣、その繰り返しの中から見つけ出すしかないであろう。

読書に読書を重ねて古今東西の知を余すことなく吸収したところで、たったひとつの無体験には勝てない。

そして、完全無の体感はその人間にとって誇りとなるだろう。

完全無であるからこそ、人間たちというひとつの可能態の成就としての生命、そのような現象的様相をありありと認識でき得る脳、それへの盲目的信仰から脱却することができるのだ。

それは、知への愛ではなくて、知への愛を捨て去ること。

それは、矜持で満たされた非哲学である。

知への愛を捨て去ることが、すでにして究極の愛であり、その究極への旅立ちなのであり、タナトフォビアを超越するためのヒントの雛形はその途上にあるはずなのだ。

究極の愛とは完全無である世界に切れ目を入れて、ありありとしたニセモノの有として分節化し得る世界を発動させることなのだ。

しかし、それだけでは完全無を無体感することはできない。

最終的にはそのような究極の愛を滅ぼし尽くさねばならない、ということなのだ。

なぜならば、完全無とは本来的には何らの裂傷も与えることのできない、つまり無傷の完全体だからである。

そして、もはやすでにして完全無なのである、ということに対する信頼こそがタナトフォビア脱却、いやタナトフォビアを超越するための、とりあえずの、しかし最終的な方便となり得る、ということであり、そこから先の無体感に対する信頼度の揺れは、個々人の哲学的かつ非哲学的態度に左右される、と言っても過言ではない。

わたくしたちに逃げ場はない。

瞬間を無限に分割する、という古代における荒業をエレア派のゼノンは思考実験として提示したが、わたくしきつねきんは、瞬間をニセモノではない無に収束させる荒業をこの作品において挙示しようとしているのだ。

もちろんそのような表現は近似値に過ぎない。

ことばはすべて近似値同士の人工的体系であり、「世界の世界性」に漸近している錯覚に陥ることはできでも、「世界の世界性」触れることなど一切不可能であることが、――あらかじめすでに――規定されている、言わば、儚さの象徴集合と言えるだろうか。

すべては、と人間たちが発語するとき、世界は無的である。

完全なる有は常識的な有としての物理学的現象が無的に空回りすることを保証せざるを得ない。

いかなる距離も速さも時間も無的に空転する(もちろん、それは錯覚を表現するレトリックとして空しく転がる、という意であるが)。

物理学的知識を最大限に活用して、光よりも速い何ものかを、躍起になって現象界において人間たちが見つけたところで、もう遅い、というわけなのだ。

「プランク長」よりも小さいスケールの何ものかを突き止めたところで、人間たちはもはや手遅れだ。

量子重力的な効果を観察してみせたところで、後の祭りなのだ。

距離は距離であらぬところのものとして距離を認め、速さは速さであるあらぬところのものとして速さを認め、時間は時間であらぬところのもので時間を認める、というそのような余計な手間は、ニセモノの有において世界を語る際には、幾ばくかの意義を持ちうるが、完全無においてはすべては御破算済みである。

あらゆる物理の学は決して完全なる無には到達できない、と予言しておこう。

人間たちの学、いや、あらゆる生命体の知というものは、限局された世界においてしかその存在理由を確保できない。

生きているということの生々しさを人間たちが再確認するより前に完全無に感染してしまっているのだ、人間たちは。

なぜなら、人間たちも、いや人間たちだけを俎上に載せるのは、差別主義というものだから、人間たち以外の生命体も、と付け加えるが、ともかくあらゆる存在者は――あらかじめすでに――世界そのものでもあるのだから。

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