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『完全無――超越タナトフォビア』第九十三章


ところでチビたち、「有限」という概念の射程とは、ある定まった幅を想起させるものだよね。

「有限」自体の濃度や速度がどのような感性的な量を示そうとも、途上が任意の点で終端に変わることで最大値が確定してしまう、ということだ。

しかし、完全無-完全有としての世界とは幅無き世界ゆえに、決して「有限」ではあり得ないのだ。

それでは、世界は動きを持つ「無限」なのか、と問われれば即座に返答しよう、否、と。

いいかな、チビたち。

世界とは「無」の戯れ、「無」の重なり、そのようなレトリックをこの作品において表現として提示したことが幾度かあったはずだが、レトリックが通用する世界とは、どこまでいってもダミーに過ぎない、ということにも警戒すべきなのだ。

ダミー・ワールドと世界そのものは違うのだ、ということ。

わたくしが単に世界と述べるときの「世界」とは、完全無-完全有としての「世界」であって、要するに「世界の世界性」を表すために、完全無-完全有という用語を使用しているということ。

限りがあることと限りがないことを超え出るためには、完全無つまり完全有を持ち出す以外に方策はない、ということ。

そのような性質でしかあり得ないはずなのだ、世界は。

その認識を何度も何度も確認するように反芻していくのが、この作品における良い意味でのしつこさに繋がるはずなのだ。

さあ、完全無-完全有においては、「無」が隣り合わせに連続していくことも、「無」が同一の位置において重なり合っていくこともない。

ゆえに完全なる「無」とは位置すら持たない、いや――あらかじめすでに――持てないのである。

話の流れが若干ずれてしまうが、かつてどこかの進化生物学者がのたまった「神とは妄想である」という命題気取りの定義には同意せざるを得ない。

というよりも、世界を安易に必然性と偶然性という対義語に分けたことで、矛盾を来たしてしまったそのときに、それを半ば強引に絶対定な聖性へと結晶化するために、分けた必然性と偶然性という対義語を、再度、超越論的なミステリーとして回収せしめた人間たちの妄念に対しては讃辞を惜しまない。

ところで、妄想とは「無」であろうか「有」であろうか。

当然のことながら、脳内で構築されるあらゆる事象は、それが感性的なものであれ、知性的なものであれ、表象としての「有」でしかない。

そして、それは完全有ではなくて、日常茶飯の、社会生活上要請される、すなわち科学的思考の範囲内における「有」である。

つまり、表象を様態として持つことが規定されているところの「実体」としての「有」である、とも言えるだろう。

具体的な個物、持続的に自存する何ものか、現象を認識するためのカテゴリー、などと定義をいくら揺らしてみせたところで、自明的に「実体」として認知されている概念、それが一般的に普及している「有」である。

ニセモノの世界においては、「実体」とは、可変であるのか、不変であるのか、という対義語関係論争上において登場することが多く、量子力学における素粒子に関しても「実体」として自存しているようで、その実、もつれや絡み合いという非局所的な相関性に縛られれるがゆえに、固定した主体としての意味を持ち得ない流動的な概念となっている。

社会生活、科学的思考、一般常識、それらにおいて有効な「実体」こそが「有」であり、それは「完全有」とは成り切れない半端者としての概念であることが約束されてしまっている、ということなのだ。

だがしかし、世界は要請され得る何ものをも所持しないし、何ものをも単純には「有」としては現出してこない。

世界はそのような理屈の中にはない。

さあ、チビたち、ここで素敵な提案。

この作品における通時的かつ共時的な論理的一貫性についてはちょっと保証できないのだが、これまでのすべての章におけるキーワードをざっくりと纏め上げてお飾りなんか付けて、今ここで、披露してみようじゃないか。

まず、仏教的最強ワードのひとつである「色即是空/空即是色」における「色」、つまりはすべての物質を構成する要素、形あるものとしての現象という意味を備えているものだが、それの否定、さらには、仏教における「有」というものの否定(その「有」が「実有」であろうと「仮有」であろうと)、それをZEN的・不立文字的に成し遂げた体験を持つのがわたくしきつねくんである、という自己紹介的前提をここで(もう九十章を越えていると言うのに!)紹介しておこう。

さて、対義語関係・否定語関係無き【理(り)】についてわたくしは言及してきたが、そのような究極の概念に関しては、ことばによって説明できそうでできない位相にある、という枷には抗えないことは重々承知しているし、最終的には、その【理(り)】すら放擲せねばならない、という覚悟についても実は体験済みである。

そうなのだ、この作品の最初の方の章では、そのような覚悟については触れることができていなかったかもしれない。

しかし、微笑ましいことに、今ここでわたくしは思い出してしまったのだ。

あのときの無体験、いや、無体感を。

ただし、その無的な体感の具体的なことは後章に譲りたいと思う。

なぜならば文脈が混線するからである。

【理(り)】の成立要件である絶対無-絶対有について、もう少しだけことばを紡いでおこう。

それは、鈴木大拙が「色即是空/空即是色」の「空」について、相対を超えた「無」である、と断定することや、西田幾多郎が「絶対矛盾的自己同一」というテーゼのために用意した場としての「絶対無」という概念とは、完全に意匠を異にする、ということを認識してほしい(本当ならば、それを感じてほしいところではあるが……)。

さらに、仏教の世界観のひとつである仏語の「有頂天」すなわち、「非想非非想処(ひそうひひそうしょ)」という境地とは、大胆かついかにも究極を匂わす概念なので頼もしくはあるのだが、そうは言ってもだ、定義上それは完全なる「無」ではあり得ない、ということが、仏教哲学をもしも人並みに学習する機会が持てるならば、誰にでも見えてくるところの紛い物の究極であることが判明するだろう。

きつねくんの思想の新しさとは、その位相を超えて、しかし【理(り)】に関してだけは必ず経由しつつ、世界を無体感するところにあるため、世界で最上の場所にある天のような境地、などという最大数の論理は、元より役立たずもいいところなのだ。

いいかい、チビたち。

自らがことばとなりつつも、自らを捨てることで、自らのことばそのものごと失わなければならないのだ。

「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」

そう、哲学におけるその究極的な未解決問題に関する謎解きが、世界を無体感することと何らかの繋がりをすでにして持っていた、ということも自ずと理解されてくるはずだ。

この作品に賭ける鷹揚さを読者が常に持ち合わせているならば。

完全無-完全有。

それは、この作品における最重要ワードと言ってもよい概念でありながら、それ以上の何ものかである。

さて、その完全無と同等だという完全有とは何なのか。

完全なる「有」とはあらゆる数字が出揃っていることではないのか?

などという反論も簡単に予想できるが、その点についても容赦なく論破でき得るのだから、非哲学は無的で無敵だ。

とは言っても、完全有というものに対するわたくしの定義に関しては、おそらくこの作品の最初の方の段階では曖昧模糊としていたかもしれない。

それに関しては謝罪するよりほかはない。

いや、話を進めよう。

生き物は、社会生活レベルの位相においては、成長する可能性があるものと規定されている。

この作品の章が増えるに従い、わたくしきつねくんも非哲学的に成長していける可能性は、常に無尽蔵に残されているはずだ。

完全なる「有」とは違って、あらゆる数字を出揃わせる、すなわちどこまでも最大の数を定めようと躍起になるしかない動的な世界における「有」、それこそがニセモノの世界なのだ、ということを、この段階でよく理解して頂きたいのだ。

おそらくは宿命として、ニセモノを丁重におもてなしする属性を、言い換えれば、世界をダミー化する能力という得体の知れないグレートなものを、最初の人間たちは原罪のひとつとして与えられたのだろう。

ダミー・プログラムによってダミー・ワールドを実行、保持、アップデート、アップグレードし続ける能力。

それを培い続ける運命。

人間たちが「幻」ということばを使いたがるのも、ダミー化された世界に対して、あるかなきかのはかなさとしての気配を本能的に感取してしまうからではないだろうか。

しかし、世界は「幻」ではないのだ。

「あるかなきかのはかなさ」などない。

人間たちは「幻」を見ているというが、そうではない。

「無」を見ている。

いや、人間たちだけではなくすべての生き物は、見ることもなく「無」そのものとなってしまっているのである。

諦念せよ。

なぜ、人間たちは「無」というものを表象としてイメージできないかというと、それは人間たちの、世界を分節するという破壊的な能力、すなわち「愛」が「無」を全幅的に信頼するという、そういった善を、微笑返しのようにあらわすことを断固として拒否し続けてきたから、とも言えるのではないだろうか。

しかし、「愛」の世界においては、何もかもが幅を持つ何ものかとして現前せざるを得ない、という罰を背負うのを潔しとしなければならないのだから、人間たちにとっては厄介なのだ。

「愛」には「無」が見えているのかもしれないが、生き物にとっての「無」となると話はまた別だ。

「無」は誰にもイメージできないはずだ。

誰しもが「無」をイメージしたときに、背景のような場、つまり幅を持つ、何らかの薄ぼんやりとした広がりが思い浮かぶはずだ。

それが、ダミーとしての「有」の世界。

そのような完全有に成り切れない「有」とは、無限の可能性を秘めた確率論的な偶然性という必然性(ニセモノの「無」においては、矛盾などは日常茶飯事である)が流れていく世界であり、そのような世界はいくらでも分解可能、分析可能、分節可能であるから、終わることなくニセモノの世界、それは非有非無、つまり空(くう)のことだが、そのような世界として世界は変化し続けることだろう。

しかし、完全有とは完全無ではなかったのだ、ということに幾度も注目せよ。

拡散し続ける無限の世界というものがあり得ないということを思い出せ。

それが完全有と縁を切った、つまりハイフネーションによる一体化から解放された完全無なのだ。

わたくしは世界そのものの話をしているのだから、もしも世界がそのような幅を持つ無限であるとするならば、必ず世界そのものは不完全なままになってしまう。

完全無が不完全であってよいのだろうか。

世界を定義しようとするならば、世界とは何なのか、ということに関して、ことばによって近似値的にでも完璧を目指して説明できるレベルにまで定まっていなければなならないだろう。

もちろん、世界とはことばで定義できる何ものかではない、ということが――あらかじめすでに――わかっているとしてもだ。

とりあえずは、不完全なもの、切れ切れのノイズはすべて排除していかねばならないのだ。

ダミーの世界において世界が定まらないのは、数を数え続けなければならない動的な呪いのせいである。

「ある」ということばが、実は無媒介的に、「ない」ということばだった、ということを思考実験的冥想シミュレーションの途上で(それは、タナトフォビアの完全克服を成し遂げたい、という当時の目的にも適うものであったが)、わたくしが経験として発見したときには狂喜乱舞したものだ。

それはともかく、社会生活的語彙としての「ある」とは、現象学的存在のことなのだが、その存在がどのような質、量、様態、関係の契機を持とうとも、たったのひとつでも世界において何らかの幅を持つものが存在しているならば、存在というものが「無」と境界線を分かち合うことができないという不可能性のルールの一点(つまりはルールの適用)によって、そのたったひとつの何ものかが、世界の全体として捉えられてしまわざるを得なくなる(もちろん、それは良い意味でだ)、ということに、わたくしたちは気付かなければならない。

わたくしはそのような深い洞察を全く個人的に掘り当ててしまったのだ、と言わざるを得ない。

逆に言うと、何かが存在者としてほんの少しでも現象学的に、物理学的・確率論的に存在することで空間に居場所を確保できていることが自明であるならば、その時点で世界のすべてが定まっているはずなのである。

宇宙に、いや世界に外側はない、という程度の命題は科学的思考によっても分析し解読し、真偽を定めることができるのではないだろうか。

科学的思考における「有」とは、完全有のことではなくて、単純な「実体」であるから、そのような「有」の膨張が「無」を埋めてゆくことはない、という結論を導くのは容易だと鑑みるのだが、いかがであろうか。

しかし、「無」を埋めようが埋めまいが、そのような動的な「有」とは、完全有とは決して言えない「有」、言うなれば二番煎じに過ぎない、ということを絶えず忘れずにいること。

二番煎じ、それは、生き物が把握できるところの「有」であって、完全なる「有」ではないのである。

完全と言うからには、世界における最大数の幅を持つ世界を、完全有と定義したくなる気持ちもわからないではないが、わたくしの発見はそこにはないのだ。

何もかもが「あって」しまっているという完結性・完璧性は、ほんの一筋の亀裂の可能性すら許さない「有」だということであり、そのとき、ただの「有」は完全有へと――あらかじめすでに――変身してしまっているのだ。

亀裂の可能性を許さない大きさとは何か。

それは完全なる「無」しかないはずではないか。

そういったことが、発見における最重要ポイントだったのである。

世界に対する人間たちの「愛」とは、完全なる「無」を原野に見立て、亀裂の対義語・否定語をその上に産み落としてゆくことである。

原野を改良すべき余地のある土地と見做し、全面的に亀裂の工場で埋め尽くしてゆくことである。

わたくしの非哲学にとっての「愛」の位相としては、従来のアガペー・エロス・フィリア・ストルゲーなどとは相異なり、むしろ破壊という名の創造を司る神のようなイメージを用意すべきかと思うのだ。

無論、完全無には位相などという場は元よりないのだが。

ともかく、人間たちは共同幻想としてのダミー・ワールドだけに立ち向かいつつ、可能性パズルのピースを歴史学的に埋め続けてきた。

そのようなことを、完全無-完全有としての世界は知りもしないだろう。

世界自身は、自身が「原約」であり、時空無き世界においては果たされること無き約束である、ということを全く知悉し得ないだろう。

果たされること無き約束には、自身が約束であることを自覚することなく、すでにして約束として完結しているからである。

約束という無的概念だけが無的に誕生した無的瞬間というものを「原約」そのものが知悉できるわけなかろう、ということである。

「原約」とは、権利や義務の発生しないような契約、法的効果を生じないような契約のことではない。

「原約」とは、
まとめる束無き、つまり事象としてのメッセ―ジ無き世界、その性質であるところの完全無としての約束、未来へと送られること無き約束であり、「あらかじめすでに」の無を示現してしまっている約束のことである。

世界そのものにとってのダミー云々についても以下同様である。

世界がダミー・ワールドを約束し、用意したわけではない。

人間たちの側がせっせと拵え続けたのだ。

拵えることで、建前上、人間たちの文明は栄えたのだがその内実とは退廃であった。

最初の人間たちこそが、もっとも「原約」に近かったのかもしれない。

決して触れ合えぬ完全無-完全有の世界に対する本能的欲求は、最初の人間たちにおいて最も強度が大きかったのかもしれない。

人間たちは時代とともに低劣になる運命だったのだ。

ダミー・ワールドは無限に膨張するだろうが、どこまでいっても「原約」としての世界に対してはその距離を延長するだけだ。

だからこそ、人間たちは探究する。

それ自体は、世界に対する背信ではあるのだが、自分たちにとっては世界に対する「愛」でもあり、その「愛」を鑽仰(さんぎょう)することで自尊心が保たれるからであろう。

ダミー・ワールドでしか生きられない人間たちが、ダミーではない世界へとうたいつづける「愛」とは、まさに知を「愛」する哲学そのものではないだろうか。

だからこその非哲学の要請なのである。

完全無-完全有における世界への飛翔とは「愛」すらも揚棄し尽くすことだ。

ことばを放り出すことだ。

うたうことをボイコットすることだ。

それが無体感の摂理としての【理(り)】であり、わたくしたちがぜひとも最後には捨て去らねばならぬすべてでもあるのだ。

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