見出し画像

『投げる』と私

合気道を40年以上続けてきた。欠かすことなく真面目に40年間稽古を積んできたわけではない。生活あっての合気道であり、仕事もあれば子育ての手伝いも、家族の介護・看病だってあった。でもまあまあ真面目に稽古を続けてきたつもりである。

若いうちは人を力で投げていた。二十歳までの2年間を魚市場で働き、毎日大将のセリ落とした自分の体重より重い冷凍マグロを、4つ割りに切るチェーンソーの台に一人で運びあげていた。毎日のトレーニングの成果もあって誰にも力で負けない自信はあった。

でも力では限界があることを教えてくれたのが合気道だった。そして年齢とともに力は弱くなっていく。そのうち力ではない何かが身に付き、それが理解できるようになっていった。日々の稽古は身体を動かすことではあるが、考えなければならない。学生時代の私に出来ないことをどうして師範ができるのかをずっと考えて稽古して来た。その間にその答えを教えてくれる人間はいないのである。その疑問が腑に落ちるまで考え稽古を積まねばならない。非常に時間がかかり一見ナンセンスなのではあるがそれが本来の稽古だと思ってやって来た。偉そうに言うが、その過程に何も考えない人間もいる。考えても気付けない人間もいる。だから、一人一人が同じ時間稽古してきてもその技は変わってくる。それは合気道に限ることなく、生きることがそうなんだとも思う。

生きるのにも肩の力を抜けばよい、時には投げ出してもよかったんだと、ほんの最近気付くことができた。若さもあったのだが長く腕力で生きて来たように思う。次から次へとやって来る困難に正面からぶつかりなんとかしてきてしまった。でも、今思うのは出来ないことがあってもよかったんじゃないかということだ。それに対して後悔の念が残ったとしてもそれでよかったんじゃないかと思うのである。どんな結果であっても後悔は必ず残るのである。ならばその時に相対的に判断して長く生き残る人間のことを考えるべきであったと反省する。

『投げる』ことと『生きる』ことは考えてみればよく似ているかも知れない。まだ合気道は続けなければならないと思っている。これは恩返しである。そして、私はまだ生き続けるであろう。どちらにもゴールは無い。あったとしてもまだまだ先である。そう思い、日々の鍛錬を続けて行かなければならないと思っている。そして道場にやって来る彼ら彼女らに今の私が持つすべてを置いていこうと思っている。二十歳で稽古を始めた私と違い彼ら彼女らには時間が無いのである。少しでも早く何かを感じ取ってもらいたい。
そして、生きるに悩む若者たちにこれまでの経験で知ったことを置いていってやりたいとも思う。
と、考えると死ぬまで酒もやめるわけにはいかないようである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?