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まあ、いっかという感覚

最近わりきることがうまくなってきた。それがタイトルにもした「まあ、いっか」である。ちょっとマイナス思考になりそうなところをあえて切り上げる。自分はここまでしたわけだし、あとは相手次第になる。だから考えても仕方がないなという時に主に使っているような気がする。だって私は元々相手の反応をいちいち深読みしては苦しむタイプの人間だったから。




「あの言葉を言った瞬間に少し表情が曇った気がしたから」「声色が少し不機嫌に聞こえたから」「いつもより笑ってくれなかったから」そんな理由で様々なことを心配してばかりいた。自分のことでないためにもうどうすることもできないのに、そのことを延々と考え続けては疲れ切っていた。しかもそれって大抵気にしすぎなだけなことが多い。相手は全然気にしていないのに私の心の中だけでは大ごとになっていた。これでは心臓がいくつあっても持たない。


相手には相手の事情がある。例えば「少し体調が悪かったから」「他のことを考えていたから」「実は急いでいたから」など、他にはいろんな理由があったりする。そしてそれは私には全くコントロールができないものだ。もちろん私のせいでということもあるのだろうけど、基本的にその感情はその人のものであって私のものではない。よって私が過剰に頑張る必要はない。何だか急にこの現象が腑に落ちた瞬間があった気がする。

それはどんなきっかけによるものだったのかと振り返ると、どうもこのnoteでの一件のような気がしてならない。私は最近の記事でかなり伸び悩んでいる。いくつかの記事は自分でもどうかと思ったので非公開にしたくらいだ。その時にふと「これって私がどんなに頑張ってもだめなやつかもしれない」とふっと楽になるような感覚が降ってきた。






小学生の頃にクラスで逆上がりができないのが私だけなんだと分かった時、とてもショックだった。けどよく考えたら頑張っても頑張ってもできないのには理由があって、そのことに気付いてほっとした。私は頑張ってもできないでいる自分を責めなくてもよくなった。誰にだって苦手だったり、できるようにならないことはあることを学んだ。


何だかその時のことに似ているような気がする。私がどんな記事を書いたとしても、それを読むのは私とは違った人達なのであって私ではない。当たり前のことながら、私自身がどんなに気に入っていても気に入ってもらえないものはある。それは仕方がない。だって気に入るか気に入らないかは読んでくれた人の自由だから。そのことに気付いて、私は逆上がりの時と同じようにうまくいかないでいる自分のことを責めなくても良くなった。



だから私も自分の記事が伸びなかった場合のことを人のせいにしない。「まあ、別にいっか。だって人の感情は私には決められない」「こうなっても仕方がないか」といい意味で割り切る。もちろん自分に原因がある場合もある。その時は向き合っていく。まだ少し胸が痛む時もあるけど、何だか少しずつ「まあ、いっか」の自分が浸透してきた気がする。

これは書いた自分も肯定するけど、私の書いた記事をどう評価するかという読んでくれた人の判断も尊重していくという感覚に近いのかもしれない。これはここで使うにはちょっと違うような気もするけど、みんな違ってみんないいということのような気がする。

価値観はそれぞれのもの。あなたも私も、それでいい。

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