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長安の夏、空海の夏

 804年、第18次遣唐使は唐に到着した。
 その中に、空海(注142)と最澄(注143)がいた。
 平安仏教の代表選手で、空海は真言宗を、最澄は天台宗を立てている。
 後に弘法大師(こうぼうだいし)伝教大師(でんぎょうたいし)と称号される。
 この二人は、都市型だった奈良仏教を、山岳型の平安仏教に変えた。
 空海は高野山に総本山を、最澄は比叡山に総本山を立てた。
 奈良仏教は政治的だった。
 道鏡(注144)のように、天皇の座を狙う僧まで出た。
 国分寺や大仏建立も終わり、僧は都市から山岳に足場を移しつつあった。
 鎮護国家というお題目は変わらないが、現世利益的な側面が強くなった。
 
 空海という法名は、宇宙の悟りと関係がある。
 室戸岬の御厨人窟(みくろど)で瞑想中、意識が拡大して、大仏化した。
 そして口の中に、金星が飛び込んで来た。
 全天視界360度、鮮やかな空と海が広がり、太陽系と一体化した。
 その時の神秘体験から、空海と法名を付けた。
 日本仏教界を代表する高僧、空海の誕生の瞬間である。
 それ以前は、教海もしくは如空という法名だった。
 俗名は、佐伯眞魚(さえきのまお)と言った。
 讃岐(香川県)の出身で、父は律令国家における郡司だった。
 18歳で上京し、儒教を学んだ。専攻は『春秋左氏伝』(注145)だ。
 24歳で、儒教・道教・仏教を比較する『聾瞽指帰』(注146)を著した。
 その後、中国語と梵字(サンスクリット語)(注147)を学んだ。
 また実業家として活動し、水銀の鉱脈を見つけ、鉱山を経営した。
 唐に渡るまでの12年間、厳しい修行と冶金に打ち込み、仏像を作った。
 そして唐に留学した時、全て自費で賄った。国費ではない。
 留学前に、近代語と古典語をマスターし、留学費用も自費で賄う。
 現代的に見ても、極めて優秀な人材であり、稀有な人だった。
 金銀銅山を経営する青年実業家でもある。一種のスーパーマンだろう。
 空海という悟りから考えても、少なくとも、星辰の門は潜っている。
 霊能力的にも、スェーデンボルグ級である事は間違いない。
 この人は、日本史で聖徳太子と並ぶ、大人物だろう。

 最澄は、最初からずっと最澄という法名だった。
 俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)と言った。
 三津首(みつのおびと)と言う姓は、渡来系だと言われている。
 後漢の献帝の子孫、登万貴王が、その祖と言われている。
 海を渡り、応神天皇の娘を妻とし、近江(滋賀県)に住み仏教を広げた。
 その功績から、三津首(みつのおびと)の姓を賜った。
 最澄は、渡来系の末裔で、仏教を代々受け継ぐ家系だった。
 伝統的な出家の仕方、受戒の手順に疑問を持ち、独自の提案をしていた。
 朝廷にも訴えていたので、時の天皇の目に止まった。
 そこまで言うなら、本場に行って見て来いと言われた。
 そして天皇から直々に指名を受けて、唐に留学する事になった。
 金銭的にも破格の厚遇で、遣唐使の大使や副使より良い。
 そういう意味では、国のエリートで、上流階級の育ちだった。
 だが遣唐使の留学生なのに、中国語ができない。
 そのため、通訳僧として、義真(注148)を連れて行った。
 義真は来日した鑑真の弟子だった。
 最澄は、中国語の会話は、義真に全て任せた。
 留学を全て国費で賄い、通訳までつけての外国留学だ。
 現代的に見て、この人物はどうか?本当に優秀なのか?
 留学先の近代語をマスターせず、古典語も読めない。
 この人物は一体何を学んで帰ったのか?日本に一体何をもたらしたのか?

 「煩雑過ぎる。時間が掛かってしょうがない。もっと近道はないか?」
 最澄は、受戒の現行の手順書をめくっていた。義真は曖昧に頷く。
 「これでは衆生は救えぬ。受戒はもっと簡略化すべきだ」
 「……具体的にはどうするのですか?」
 義真が尋ねると、最澄は手を止めて、寺の庭を見た。
 「最終的には、本人が得度(とくど)受戒を宣誓するだけでよいと思う」
 「……立会人は要らないのですか?」
 義真は驚いた。それは所謂、私度僧(しどそう)ではないか。
 「ああ、そうだ。それが最短の近道だ」
 「……でもそれだと、いつ誰がどこで受戒したのか分かりませんよ」
 義真は指摘した。第三者の立ち合いがないと、客観性が保てない。
 「そんな事は小さな事だ。衆生を救う目的が先だ」
 義真は唸った。そうなのだろうか?そうかもしれない。
 「……在家はそれでもいいかも知れませんが、僧は不味くないですか?」
 仏教は三帰五戒を、僧の立ち合いで宣誓して、修行する事になっている。
 「僧は今考えている。三師七証の十人の僧を、どこまで減らせるかを」
 義真は沈黙した。彼の師、鑑真は受戒のために日本に渡った。真逆だ。
 「……それだと日本の仏教は、ねじ曲がったものになりませんか?」
 「末法の世が近い。時間をかけていては、衆生は救えぬ」
 最澄は、静かに受戒の手順書を机に置いた。義真を見つめる。
 「私の目的は、この唐で、衆生救済の近道を探して、持ち帰る事だ」
 最澄は、日本に帰国した後、本格的に受戒省略化の道を突き進む。
 また人間は、元々悟っている存在だからと言って修行論もすっ飛ばした。
 万人に仏性が宿る故人は生まれながら仏であるとした。天台本覚思想だ。
 結果、比叡山で一体何のために修行するのか、誰も答えられなくなった。
 天台宗は深刻な矛盾を抱えた。人間悟っているなら、修行の必要はない。
 だが人々を救うのだと言って、天台宗の僧は世の中を、駆けずり回った。
 そしてこの流れから、浄土宗系の運動も起きて来る。他力本願系だ。
 
 夜、空海は手紙を認めていた。全て漢文だ。密教の論文も添付する。
 あて先は密教系の寺の和尚だ。先に手紙を送って、論文も読んでもらう。
 内容は、近代語と古典語で埋め尽くされている。精密だ。
 「……何でそんなにグルグル回っているのですか?」
 女の童は訊いた。姿は他の者に見えていない。座敷童か。
 「急がば回れってね」
 唐に来てからこの一年、空海はあちこち回っている。多忙だ。
 「……だから手紙を送るのですか?」
 メールとパワポの資料で、訪問先にアポを取るような感じだ。
 「ああ、そうだ。行く前に全部見てもらってから話を聞きに行く」
 ふと机の横を見ると、紙の束が積み上げられていた。
 「……日本からも手紙が来ていますね」
 「ああ、鉱山の経営をやっているからな」
 空海は僧であると同時に、経営者でもあった。
 「……よく分からない内容ですね」
 女の童は手紙を覗き込んだ。首を傾げている。数字の羅列だ。
 「留学は金がかかる。これを見て、滞在を決めている。」
 それは一種のバランスシートだった。20年間の留学計画を立てている。
 「……大変ですね。国費で留学という手もあったのでは?」
 「いや、これは働きながら、学んでいるからこそ、意味がある」
 空海が唐で最澄と会ったという記録はない。だが名前は知っている。
 「……仏道修行と鉱山経営をやるのは大変ですね。遠回りでは?」
 実際の空海の留学は、2年で終わる。予定の1/10の時間で目標に達した。
 「人生に近道なんてないよ。修行も同じだ」
 空海は楽しそうに言った。そう言いながら、手際は極めてよい。
 「迷ったら、大変な道を選ぶ。醍醐味だよ」
 女の童は呆れた。こういう人は珍しい。
 「近道なんか選んだら、人生が勿体ない」
 空海は笑った。どこかで、最澄がくしゃみをしたかもしれない。
 それが長安の夏、空海の夏だった。夏の山が見える。高野山を登る。
 805年5月、空海は、唐長安青龍寺で、密教第七祖である恵果和尚を訪ね、即座に密教の奥義伝授を受けた。これは行く前からすでに評判が伝わっており、送った論文も審査した後なので、残りは面接だけで、一発でその実力を認められたという事だろう。行く前から勝っている。
 無論、恵果和尚の下で、修行してきた弟子たちは不満だっただろう。急に来た日本からの留学僧に、その衣鉢(いはつ)を奪われたのだから。だが空海が、密教第八祖となった。これは実力だ。そして日本に帰り、本物の密教を伝えた。弟子ではなく、師匠の資格である。
 835年3月21日、空海は入定した。入定とは、瞑想に入る事だが、空海は永遠の瞑想に入ったと信じられている。だから空海は、高野山、奥之院御廟で、今も生き続けていると信じられ、禅定している空海に、寺は一日二回の食事を運んでいる。これは太平洋戦争中も、中断する事なく続けられ、835年から現在まで、1,200年近く継続している。無論、料理人も代々受け継がれている。これは特筆すべき事だろう。空海は、それほどまでに、日本人の尊敬を集めた。

 注142 空海(くうかい)(774~835年) 僧 日本→唐→日本  
 注143 最澄(さいちょう)(766~822年) 僧 日本→唐→日本 
 注144 道鏡(どうきょう)(700~772年) 僧 日本
 注145 『春秋左氏伝』孔子の史書『春秋』の注釈、魯の国の歴史書。
 注146 『聾瞽指帰』(ろうこしいき)空海著 793年
 注147 サンスクリット語 インド・ヨーロピアン言語 古典語
 注148 義真(ぎしん)(781~833年) 僧 日本→唐→日本 鑑真の弟子

            『シン・聊斎志異(りょうさいしい)』補遺033

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