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131/1096 イタリア人・愛すべき悪口戦士たち

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で131日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

131日目、今日はいろいろと考えさせられた日。
なぜ毎日投稿が続くかというと、自分の決心だからだ。人から押し付けられたものではない。

だから、自分を裏切りたくなくて続いている。若い頃のわたしは平気で自分の誓いを反故にしてしまって日記すら続かなかったが、今回ばかりは大変な日も頑張っている。
その当時の自分は、自分自身にいつも傷つけられていたと思う。そこから抜けられた喜びは大きい。

この孤独な戦いが好きだ。
一人でも戦えるというのは気分がいい。

一人でも戦える人が、誰かと一緒に戦うのは楽しい。一人では戦えないから人と一緒に戦う、というのもいいと思う。

ずるいのは、人に戦わせて自分は安全圏にいて、人の戦いの成果だけを安全なところからもらおうとすることだ。
そしてさらに情けないのは、それを見た者が、あいつが安全圏にいて得をするなら、自分も戦いなんかやめて安全圏に行こうと考えることだ。

わたしはそんなところは安全でもなんでもないと思う。そこにいると自分が傷つく、毒の沼地だ。

わたしは一人残ったら、一人でも戦おうと思った。そもそも、もともとひとりなのだ。
これからも地道に書こうと思った。挫折したら自分のせいだ。少なくとも、自分の力が及ばなくてやり通せなかった、という方がいい。

他者の状態や他者の目を気にして諦めを選んだ瞬間、毒の沼地に落ちる。

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今日は、たまには毛色の違うことを書いてみようと思う!イタリア暮らしでしみじみと思うことを書いてみよう・・・

イタリアに暮らしていて、ポカンとすること、腹が立つことがよくある。
文化の違いに腹を立てても仕方がないのに腹が立つ。
 
先日も夫の仕事で必要なトラック運送を頼んだが、荷積み中に荷物を提供した会社側から中身に間違いがあった旨の連絡が入ったため、それを抜き取るためにそれまでに積んだ荷物を一度下ろしたところ、運転手はもう一度積むのが面倒だからといってすべてを下ろして走り去ってしまった。
彼は仕事をせず空っぽのトラックで去り、わたしたちも同様に仕事ができなかった。こうしたことが頻繁に起こる。

同会社にトラックを頼んで、約束の日時に合わせて現場に居ても、時間がとっくに過ぎてから今日は行かないという連絡が入る。
彼らはトラックを手配するのが仕事だ。客はそれに合わせて積荷を用意する。しかし、来ないのだ。しかも、3回に2回はこの調子だ。

わたしは日本人だから、こうしたことにまずあんぐりとする。ポカーンとする。そして、すかさずいらだちを覚える。
しかしわたしのイタリア人夫は、まあ仕方ないよ、と言う。

はじめのうちは、郷に入らば郷に従えという諺どおり、今はイタリアに居るのだから仕方がないと思おうとしていた。夫のように初めから期待していないほうが楽だ、初めから諦めている方が楽だと。しかし、ここ数年はすっかりその考えを捨てた。

なぜわたしが自分を捨てなくてはならないのか。そう思うようになった。
わたしは日本人だ。イタリアにいても日本人だ。だから頭にきて地団駄踏んでいればいい。それが嫌ならこの場所に馴染めなかった自分が日本に帰ればいいだけのことだ。
わたしは地団駄踏む方を選んだ。だから今回も、なんて野郎だ!!と悪態をついた。そして気が済んで溜飲を下げた。

その仕事が嫌ならば、仕事自体をやめるのはいいと思う。それは本人の自由だ。でも、その職場には勤め続けつつ、やりたくないから仕事をしない、とはなんたることだろう。
わたしは日本人だからか、これはかけていい種類の迷惑ではないなどと思ってしまう。でも夫は息をするようにカソリックの精神を発揮して、仕方がないじゃないか、と考えるのだ・・・

今回のトラックの件は、パン屋さんならこうなる。
パン屋さんをやっている。今日はパンを売りますと言って店を開ける。しかし気が乗らないからパン自体は作らない。客は店に来てもパンは買えない。
これは日本人にはかなり受け入れがたいと思う。わたしはこの辺りのことを、夫のように、まあ仕方ない、と思えない。毎度のように、じゃあなんでやると言ったんだよ○☓◇▲※~~~!!と思う。
そして、とは言っても仕方ない、水と油だ・・・と思うことにしている。

わたしはイタリア人のようになるためにイタリアに来たわけではない。
海外に住んだらその土地の人達の習慣を学んだり、異文化に触れることで視野が広がるということはたくさんある。大きな学びだと思う。
けれども、染まれないところはどうしても染まれない。わたしは日の丸の国の子だ。それでいいと思っている。

これは、何も海外にいるときだけのことではなくて、日本にいてもそうだと思うのだ。人と知り合って、いろいろなことを学ぶ。でも、全部相手の考えに合わせることはできない。

それでも付き合うか、付き合い自体をやめるのか、それは自分で選べば良いと思う。でも、どちらを取ったとしても、選んだのは自分だということを忘れてはならないと思っている。わたしは地団駄踏みながらもイタリアに居ることにした。だから、その場はひとりで怒ってりゃいいのだ。

イタリアに来てから、コミュニケーションの現場ではとにかくメッタメタにやられた。彼らは相手がイタリア語を理解していようがいまいが爆撃をしかけてくる。伝える、というコミュニケーションの目的自体を蹴破って突っ込んでくる。イタリア人は強い。戦闘力が高い。日本人のそれを高く見積もって若かりし頃のヤムチャだとしたとき、彼らはほぼ全員がフリーザ様だ。

まず、彼らは悪口を愛している。日本人が悪口を言ってスッキリする、というのとは完全に質が違う。そこに罪悪感がないから、発言のたびに裏で自分も傷ついたりはしないし、背徳感を楽しんでいるというのとは違う。
悪口を、文字通り愛しているのだ。それは国民全体に愛されている娯楽のひとつ、罪のない平和な楽しみだ。
老若男女、悪口を口から発するときは

「うぉっしゃ、出番が来た・・・!!」

という喜びとともに、隣の席にまで聞こえるような大きな声で、自慢のスピーチを発表するかのように嬉しそうにまくし立てる。
隣の席の人も、それを聞いて自然と笑顔になる。みんなが大好きな悪口だ。それは笑いのもとで、暖かな家族団らん時にも、友人たちとの交流時にも欠かせない純粋な楽しみ、皮肉とブラックジョークを磨いて炸裂させる爽快痛快なエンターテイメントなのだ。

さらにそこに反論が入ると、もうその場はとんでもない討論会に発展する。相手が話していようがいまいが、そこにさらなる音量で腹の底から声を出して持論をかぶせはじめ、興奮して立ち上がって身振り手振りで丸め込もうとする。パロラッチャ(スラング)も平気で混ぜて、女性だってとんでもない単語を使う。うら若き美女の口からもマダムの口からも、男性器を表すスラングが100回くらい飛ばされる。彼らは相手からぐうの音も出ないように持論のプレゼンを叩きつけて戦う。フリーザ様対フリーザ様の戦いを見ることができるのだ。

この時、イタリア人たちは侮辱し合いながらも楽しそうだ。おりゃ~発揮したるぜー!という強気爆裂の喜びを伴っているのが見ていてわかる。
日本人とは根底からして違う。神経の反応が違う。性根が違う。
そして、それが終わったあとの彼らには、ただお喋りをした、という意識しかない。日本人だったら、今日は大変なことになってしまった!!と思うほどの喧々諤々をやらかした気になるであろう。

これに慣れるまで、うわ、また始まった・・・!!とばかり思っていた。
わたしは日本にいるだけで悪口は悪いことだと植え付けられていたのだ。
こちらでは、テレビだってユーチューブ動画だって、誰かが怒っているものばっかりだ。誰かが怒ると、日本では空気が凍ったりする。こちらでは、なにかこう、場が盛り上がってきた、という空気になる。
今はすっかり聞き慣れてしまって微笑ましくも思うが、夫などはレストランでどこかのテーブルでそれが始まったりすると、ニヤニヤしてそちらを見たりする。誰かが本当にキレたりすると、笑って喜びをあらわにするのだ。
そんな夫を見ると、わたしは彼にもフリーザ様の血を感じる。

他にも、イタリア人はアドバイスがどわぁ~~い好きだ。
人が何か悩みや不満などをチラとでも言うと、待ってました!!待っちゃってました!!と言わんばかりに、怒涛のアドバイスが始まる。
あのね、いい?!聞きなさい、あなたが~をしていかないとダメなのよ、わかる?~するべきなの。それが正しいのよ、だって~で~で~じゃない!!そうでしょう?!もう~今すぐ変えなさい、今すぐ~をしなさい、わかった?!あなたは幸せで居なくちゃダメよね、そうよね!!
もしそれをしなかったらどうなると思ってんの、~で~で~になるわよ、そうでしょう!!わたしが正しいでしょう!!ねえ?ほら今すぐこの場で電話しちゃいなさいよ、それが一番よ!!
みたいなことを彼らの歓喜とともに延々と言われる。大抵の日本人なら、慣れないうちはタジタジになるはずだ。

しかしこれがイタリア人同士になると、いやいやいやいやお前はわかってないんだよ、俺があの野郎に合わせる必要ねえだろ、クソ馬鹿馬鹿しくて聞いてられないよ、だいたいなあ、うんぬん・・・・と返したりして、ぎゃーぎゃーわーわー始まる。そして皆だんだん立ち上がり、声がでかくなり、やはり、嬉しそうだ。
日本人が、討論しているくせに人の心に触れてはならないと気遣いながら話すのとは違って、人の心にバシバシ直撃してくる。清々しいほどに。

わたしはこういう場にいるとき、自分はなんて日本人なんだろうと思う。
女の自分ですら、ネオ武士だ。この場は黙して語るまい、貴様らにはわかるまい・・・!三島よ、武蔵よ、五輪書よ・・・!と思ったりしてしまう。
これが日本人の良くないところなのかもしれない。それが、しっかりと自分に根づいているのがわかる。

住んで8年目になるから染まったところもあるのかもしれないが、日本にいる間、元々ついついものをハッキリ言ってしまうほうだったから、この点についてはこちらに来て非常に気楽になった。それでも、やっぱりついに、自分が100%イタリア人のようにはなることはなかった。

彼らは自分の親の悪口もたいそう明るく楽しむことができる。わたしはここに染まり切れなかった。わたしの母は恐ろしく教養がなく、かつ異常な集中力を持つ変人であり、わたしはそれに似てフォレスト・ガンプのようになってしまったのだが、わたしの後ろに隠れてわたしを矢面にしてしまうほど気が弱いという点についてこうしてバラしたりするとちょっと可哀想な気もする。
父もそうだ。教養が高くて頭がとてもキレたのに、ヤクザ根性が根付いていたためその知性を人生に活かしきることがなかった。このことをこのようにバラすと、どこかに申し訳ないような感じが伴う。

しかし夫は自分の父親を、とてつもなく知能が低いんだ・・・!脳みそがないんだ、完全なブラインドなんだ。母はそれ以上に思考する能力がないから父の言いなりで、妹はすんごいビッチだよ。と誰にでも積極的に明るく言い切る。かつ、ここが重要だ・・・自分を同様に悪く言われても気にしないのだ。フリーザ様である。

わたしがイタリアに来てから学んだことのうちのひとつが、日本人にとっては考えられないような常識が世界中にあるということ。
悪口を言うのは悪いこと。言う人は人格者ではない。こんな日本の常識は、この国では通用しない。
イタリアでは、人を本人の前で平気でこき下ろして笑う人が、いつだって人のためになることを心から喜んでしてくれる、驚くほど親切な人だったりする。

こうしたことに触れるたびに、自分をガンガン破壊していくのは良いことだと思う。自分の思い込みなど、思い切りネリチャギを入れてかち割ってしまえばいい。
けれど、全部を見失うことはない。同時に自分をしっかり持っていていい。曲げられない誇りや信念があったっていい。
人間相手のことは、何もかも相手に合わせよう、合わさせようとすると、辛くなるのだと思う。

相手が好きな人でも、愛する人でも、尊敬する人でも、ここは譲れないというところがあったっていい・・・・
多くの日本人にとって、それを自分に許すことよりも、きっと「譲れない」というのを表すのが難しいのだろう。

日本人が憧れがちなイタリア人のジメジメしない明るさがもし、悪口くらい言ったって言われたってなんだってんだ、笑えるじゃないか!というところから来ているのだとしたら、どうだろう。
これは、我々日本人にとって面白い刺激になるような気がする。

今日は異文化の中で感じたことを綴ってみた・・
(もちろんこれはアベレージの話。すべてのイタリア人が同じだとは言いません!)
それではまた、明日!

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