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この世界にたった一人のわたしは、ワールドカップでひとりぼっち。

「ああ、勝利したんだ。ふーん。」

こう思った今の私、とても、胸が痛い。
心がキリキリと鳴る。きゅうきゅう締め付けられる。
なぜだろう。

ああ、そうか、
私は今、世界がこうして繋がっている中、
繋がれていないひとりぼっちだからか。



現在2022年12月2日午前6時

なんか知らないけど、
ワールドカップというのが一段落して、
知らないうちに、スペインに日本が勝ったとか。

しかもなんか、すごいことらしい。

なんで…?


とても語弊のありそうな、ファンの方からしたらドタマぶち抜いたろかァ!!と怒られそうな書き出しだが、怒らないでほしい。

私は本当に、シンプルに、スポーツの話題がわからない。

サッカーが、野球が、とか、種目の話ではない。
スポーツのおおよそ殆どの話がまるで頭に入ってこない。

ついていけない。

私のモットー的に、
「わからない」というのは、「調べようとしていない」ということになるので、
そう言われてみれば、そこまで調べてないなぁと自分をツンツンするところではあるのだけれど、

調べたとて、世が世のムーディ勝山なら右から左へ受け流し、穴のあいたバケツ、笊に水を入れるが如くなんの興味も心に留まるものもないまま、見事なまで清らかに脳内排水口へその情報は流れていってしまう。

びっくりするほど興味が沸かない。

当然こんなんだから、ニュースや中継なんかも見るわけがない。
だから余計見ない、見れない、の堂々巡り…。


ああこれが本当の「理解らない」か…。

本当に私は、スポーツが肉体面どころか、精神面からも苦手なんだな…。


自分でもおかしいと思う。

我ながら好奇心や興味は旺盛な方と自負しているが、なぜここまでスポーツ(ひいてはワールドカップ)に興味が微塵もないのか。

その問を脳内に浮かべてみたら、
ぷかぷかと横から、
・小学生だったときに父と遊びでキャッチボールしていたら、父が熱くなり怒鳴って教えるようになってから野球が嫌いになったこと
・小学生のころにサッカー、野球をしている人種の周りとそりが合わなかったこと
・幼少期から、スポーツの試合というのは、
人間同士の争い(勝ち負け、闘争本能、上下関係の植え付け)の元だと、誰から教えられたわけでもトラウマもなく、ひたすら憎悪に似た感情を抱いていたこと
(こんなことするから戦争が起きるんだ、と親に言っていた)
・上記を理由に、親の知り合いの柔道教室で、見学していただけで一人静かに歯を食いしばりながら黙って泣いたこと

と、
まあ、他人からすれば大体どうでもいい御託のようなものがゴロゴロと溢れてくる。

過去を振り返れば短絡的すぎる結びつけばかりで、
ほんとにこれを専門としている人には、こうやって並べて見てみると、今となっては無礼極まりないなと思う。

だが、そんなこじつけのようなスポーツに興味のない理由をデカデカと看板掲げて「嫌いです!」というほど、今の私はカチカチの堅物じゃないと信じている。 

人のなかで作られる物事の印象や好き嫌いなんて、大体些細なきっかけの延長だと思う。
それさえ考えなければ、だいたいのものは受容できる。

問題は、なおその理由を受け入れた上でも、未だスポーツに興味がないのか。 

その答えは、結局、“人”なのかもしれない。

どんな人もみな、Twitterのニュースやタイムラインを覗いてみれば、
「おめでとう」「すごい」「応援するぞー!」「がんばったね!」「泣きそう」と、
一同が一丸となってひとつのものに集中している姿が文面から見えてきて、

私の愛する、我が我がと殺伐としたTwitterから、
汗や涙を流してともに喜びを分かち合う思春期Twitterにイメチェンしてる。

「いつものTwitterちゃんじゃぁないー…。(マサオ君)」

「私のTwitterを返してよ…!!(ヤンデレ)」

私の脳内アテレコに火がつく。



日本中が、自分ごとのように喜んだり泣いたりして、ひとつのものに一斉に熱くなって、
ピュアな気持ちでキラキラしてる。

なーんだ、みんな思ったより、綺麗じゃん。


羨ましいな…。


私はたぶん、至ってシンプルに、 
スポーツが嫌いだから、ついていけなくて、
ついていけないから、ついていけてる大勢を羨ましくなって、
そして、孤独を感じて
孤独になるから、スポーツが嫌いなんだ。

矛盾した心やね…。
悲しい色やね…。


私、スポーツを嫌いになったせいで、
スポーツの話題、ひとりぼっちだ…。
『まーぜーて』
したいけど、嫌いだからできない。苦手だから言わない。

ええい、ほかのことではみんなについていけるんだーい!!

などと、見栄は張っても、
スポーツというそこでしか得られない楽しみにはついていけない。

悔しい。

日本中が喜びを噛み締めているのに、
私だけがノリに入れずに悔しさを噛み締めている事実。

そして寂しい。

寂しくなりたくてスポーツが苦手なわけじゃないのに、スポーツでみんなが楽しそうにするから寂しい。

世界にむけて、一丸となっている世間に対して、
この世界にただ一人の私は、今その世間というものに対して、存在として尊く一人でここに居るとはいえ、
結局誰と混ざれるわけでもなく、ワールドカップの瞬間だけは、ただのひとりぼっちだった。


(本エピソードのようなものエンド)




(あとがきのようなもの)

 「ああ、勝利したんだ。ふーん。」



苦し紛れに独り言を、ニュースフィードに投げかけて、
心がキリキリと鳴る。きゅうきゅう締め付けられる。

ひとりぼっちで孤独に押しつぶされそうな私は、今どうするべきなのか。

そうだ、note書こう。

タイトルは「この世界にたった一人の私は、ワールドカップでひとりぼっち。」

なんとなくの語感で、パッと思いついてすぐに決まった。いい感じだ。


しかし、このタイトルを先につけて、書き始めている最中、自分でも予想だにしていなかったオチに気づく。


私は、Spotifyのポッドキャストにて、
「叶姉妹のファビュラスワールド」という、叶姉妹のお2人の番組を好きでよく聞いているのだが、

その番組では、番組開始時、タイトルコールのとき、
いつも決まって、美香さんの声で、叶姉妹語録の一文が流れ、二人でタイトルを言うという音声が流れる。

それがこちら…。

たとえ百万人が、楽しそうにしていたとしても
そこに楽しめるものがない
この世にたった一人のあなたは、
無理に笑うことはありません。
───叶姉妹のファビュラスワールド


ハッとして、ゾワッとした。

私は意図せず、この文章があたまに刷り込まれていて、
タイトルもそれっぽく作ってしまっており、
なんかワールドとか世界とか楽しめるものとか、話にめっちゃ掛かっている…。

ただ、孤独を投げかけて終わるつもりが、
最初から一つの答えを見つけてしまっていた。
 

───そうか、私は、
スポーツの話でみんなが笑っているところに
無理に笑おうとしていたんだ。

それを忘れて、ただただ孤独に飲まれようとしていた。


流行、嗜好、嫌悪。


その流れに背くことは、別にして良いことである。
スポーツが楽しめないならそれでもいい。
嫌いなら、嫌いのままでいい。

誰もが一度、無理してついていこうとしていたり、群体の中で、周りの空気の中、無理に楽しもうとしていたりする場面があると思う。

自分が楽しめない中、無理に楽しもうとしていたって、
余計笑えないのは当然で、
その場が嫌になることの堂々巡り。

まさに私がスポーツの話題に感じていたことと同じだった。 


じゃあもう、無理に笑おうとするのはやめよう。


羨ましく思うことは、笑うことや楽しむことだけにこだわっているからだと、私は気付いた。


まさかの叶姉妹に助けられてしまった。


ぜひ一度、私のように
どうしても話題に乗れないものがある方は、
この言葉を思い出して、
楽しめないなら楽しめないままでいて、
どうか笑えない自分を誇ってほしいと思う。

すごい叶姉妹の回し者みたいなオチの仕方で申し訳ない。

もっと叶姉妹の言われていることは深いことでもある気がするが、今回はこういうケースとして引用させていただいた。

これは、あんまりサッカーやスポーツ好きな人に読んでほしくないかなぁ。。。笑

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