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父と娘の珍介護道中(日記的エッセイ2010〜2022) 時々、母のこと、故郷のこと、自分のこと EP34

エピソード34
父のラスト・ライブの詳細レポート

2022-01-25

1月18日、父・藤井明雄が94歳で永眠いたしました。
お昼のサンドイッチを一生懸命食べて、自分の部屋に戻り、お昼寝している間に安らかに息を引き取ったようです。
私も弟もすぐ駆けつけることができ、まだ温もりのある手を握って
「自分でも気づいてないかもね。よく頑張ったね。ありがとう」と伝えることができました。

ケアハウスのスタッフの方たちも、仕事の合間に一人ずついらしては父に語りかけ、父とのエピソードを聞かせくれてくれました。
所長さんと長く担当してくださったスタッフさんは、
「温かいうちにお気に入りだったお洋服に着せ替えて差し上げたい」と言って、
赤いウールのポロシャツと裏起毛のズボンと昨年暮れの誕生日に私があげた柔らかい靴下に取り替えてくださいました。
その様子を見るにつけ、ああ、父はここでちゃんと社会を作り、みなさんと対等におつき合いをし、そして、愛されていたんだなと思い、とても嬉しかったです。

バタバタと日程が決まり、21日には親族のみの一日葬で仏様となりました。
FBにPCスライドショーの大画面での上映方法のヘルプを投稿したのはその前日。
なんとかやり方がわかり、大きなモニター画面を用意しましたが、式中は思ったより見ていただく時間がなく、ほぼ企画倒れでした(汗)。
でも、それで諦める私ではありません(笑)。
荼毘にふされるのを待つ間に見たらどうだろうと、待合室にPCを持ち込んだ。
それが大正解。
まるで昔大磯の実家にお年始で集まったように、親戚一同で父の思い出の写真を1枚ずつ見ながら、それぞれが思いおもいのネタを披露するという時間に。
賑やかなことが好きだった父はきっと喜んでいたと思います。

納棺までの2日間きれいな部屋で横たわっている間には、
父と親しかった大工さんをはじめとした職人さんたちにも連絡がつき、
都合のつく時間にみなさんそれぞれ父の顔を見に来てくださった。
会っていただきたかったので本当にホッとしました。
思いついたら即行動の待てない父らしいきれいな最期。
そして、私の知っている古き良き昭和は楽しいイメージとともに終わりました。

昭和2年に山口県下関で生まれた父は、土木関係の仕事で各地の灯台やダムを造る仕事に携わっていた祖父とともに各地を巡り、
小学生の頃一家で大磯の漁師町に定住。
子供の頃は幼馴染と一緒に、毎日戸板で波乗りをするわんぱく坊主だったよう。
戦時中だったため高校時代は予科練に行かされ、ほとんど勉強できなかったと言います。長男であった兄は終戦間際に台湾沖で戦死してしまったため、
戦後の混乱期は、独学で大工を始めた祖父とともに、父も大工として修行し、
一家支えていたそう。

その後、大工仕事をしながら東京の大学の夜学に通い、一級建築士の資格を取得。私が物心ついた頃には、大工もできる一級建築士として、平塚の小さな工務店で設計や現場監督をしていました。
実家の図面台にはいつも設計図の青焼きが乗ってたな。
職人さんたちから慕われ、私もよく日曜日には飯場に一緒に行っては職人さんたちに可愛がられていました。

昔の建築業だから、そりゃもう地鎮祭だの建前だのとお酒の場は多い。
母も私も弟も、父のそのお酒で泣かされました。
特に私の思春期の頃は本当にヒドかった。
夜、町中に響き渡るような声で「♪ヤーレンソーラン」とか「♪まーてどくらせーど」とかハイトーンで歌いながら帰ってくるのが聞こえると、
弟と私は「逃げろ」と2階に上がる。
帰ってくればまだいいほうで、泥酔してタクシーに乗り、家がわからなくて警察署に保護されること数知れず。その度に母や弟が迎えに行っていました。
父が連れてきたホームレスのおじさんに、朝、母がタバコ賃を渡して帰していることもあったっけ。

当時、母は母で腎臓を患い、誤診で余命三ヶ月と宣告されたのがきっかけで鬱を繰り返すようになってた。
にも関わらず、父の酒癖の悪さはエスカレートし、しまいにはいわゆる酒乱となり、完全に狂人の顔で母に手を上げることも。
止めに入った私にも、というとんでもなさ。
母は夜中いつもよよと泣いていました。
そんな母を守るため、私はどうしても家出ができなかった。
つまり、若き私にとって当時の父は本当に最低最悪の男で、そんな環境に生まれたことを、そう、今で言えば親ガチャにハズれたことを、
ずっと恨めしく思っていました。

親戚を含めての家族会議で、父はしばらく久里浜のアルコール依存症を治すプログラムに通っていました。
お酒を克服するために詩吟を勧められて、母と一緒に始めたのはたぶん50代半ばくらいだったんじゃないかな。
机に自分の使い勝手がいいように並べた文房具の角度が5ミリでも違っていると直すほど(私が動かして大雑把に置いたりするといつも直されてた)基本、几帳面で真面目な人だから、やり始めたことはきちんとやり続ける。
詩吟のお仲間ができてからは、羽目をハズすまで飲むということは徐々になくなっていったと思います。もうその頃は私も社会人になって家を出ていました。
実家に戻るといつもふたりで、CDやカセットや詩吟専用のキーボードを使って練習してましたね。

今思えば、最悪だった頃の父は働き盛りで、細かな設計や見積もりにキューッと集中して、かつ、小さな工務店を背負って立つ責任感とか人との調整とか、母の様子がオカしくなるのを直視できない自分への苛立ちとか、いろんなことがあって、唯一ラクになれるのがお酒だったんでしょう。
と、この話をするといつも姪が、「パパ(弟)とみーちゃん(私)はよくグレなかったね」と言うんだけど、たぶんグレてこうなったんだね(笑)。
そんな弟と私に囲まれて、姪が写して選んだ写真が遺影になったんだから、なんて幸せな人でしょう。

父が180度変わったのは、やはり2001年に母が倒れてから。
その後も肺塞栓や脳梗塞で何度か危機的状況になった母を、父は本当に献身的に支えてた。ああ、この人も悔い改めためたんだな、と、そこからは私も父を人として見直すようになりました。
本やテレビで料理も覚えて、またやりだすと几帳面で集中力があるから、あっという間に上手くなる。
私が初めて今の夫を連れて行ったときも、ゴボウの入った美味しい鯛の煮付けを作っていてくれました。

母が肺塞栓のリハビリから戻った2004年にはその疲れがたたって父自身も脳出血で一時入院。
でも、持ち前の前向きさで復活し、少し麻痺の残った右側と折りあいながら、2008年に母が逝くまで自宅での老老介護を頑張ってくれました。
地域のケアマネさんとのやりとりを含めた介護保険周りのシステムやネットワークなどは、父と協力して経験するうちに徐々に私もわかるようになりました。

それから2年ほど、時折ヘルパーさんに来てもらっての一人暮らしを送っていたのですが、2010年のちょうど今頃、長年の疲労による腰の圧迫骨折で急に歩けなくなった。そこから馴染みのケアマネさんにも協力していただいて、施設に入所することになったんです。
最初は本人も自宅に戻るつもりだったので、リハビリのプログラムがしっかりある介護老人保健施設(いわゆる老健といって、病院と自宅復帰をつなぐ一時滞在施設。基本半年でその後の身の振り方を決めなきゃならない)に。

でも、治療、リハビリを重ねても痛みが取れず、本人ももう少しゆっくりできるところがいいと言うので、ケアマネさんが紹介してくださったケアハウスに。
2011年の初春に見学、体験入所を経てお引越ししました。
その経緯のすべてが、老健施設に入り始めた当初から父がつけていた日記で今回わかり、私も自分の手帳と擦り合わせて、ああ、そうか、ケアハウスに移ったのは震災の年だったのか、と、そのめまぐるしい日々を思い出しました。

つまり、最期までお世話になったケアハウスには11年いたのですね。
仲良くしてくださった大正生まれの元気なおばあちゃまの次に長い入居者。
老健のケアマネさんが「藤井さんに合う」と言ってくださった通り、本当に柔軟性のある心地いいケアハウスでした。
本来入居者用のリハビリ・プログラムはないのだけど、週1くらいでやりたいという父の希望を伝えたら、同じ建物内のデイケアでできるようにしてくれて、数年後にはそこの理学療法士さんが父の部屋に来てリハビリをしてくださるようになりました。

そこは私たちがお願いしたわけではないので、父が希望し、交渉したのでしょう。「先生が半年後には歩けるようにしてくれるって言うから頑張ってるんだ」などと父はよく嬉しそうに話してました。
90歳になるくらいまでは、数独をやったり、詩吟の練習をしたり、教えたり、月1回の歌の会でも、よく自分で選曲して歌ってました。
「歌う人が数ないんだよ」なんてちょっと困り顔で、でもまんざらでもない様子で。

米寿のお祝いは外のレストランでできたけど、90歳のお誕生日にはもう外では無理だったので、入所者のみなさんのお昼が終わる時間にケアハウスのコックさんが作ってくださった松花堂弁当でお祝い。
そんな藤井家の(ま、ほぼ私のだけど)無茶な希望にも、いつもきめ細やかに対応してくださり、そして、創意工夫して叶えてくれました。

一昨日、主のいなくなったケアハウスの整理をしてたら、
その90歳のお祝いの席用に可愛い箸袋を手作りして、祝辞まで述べてくれたスタッフさんが来てくれたので、
「あれはすごくいい思い出になってるよ」と伝えました。
すると、彼女は「藤井さんにはいつも励ましてもらってました。私、高いところがダメで、いつだったかバス旅行に行ったときケーブルカーに乗るのに泣きそうになっていたら、『大丈夫だ。俺がついてるから大丈夫だ』と言ってくれて」と、涙ぐみながら。
「父は鳶の人たちをいつも下からそうやって見てたからね」と言いながら私も思わず涙目になりました。

詩吟を教えてた前の部屋のおばあちゃまも来て、「藤井さんとはよくケンカもしたんですよ。思いがけないことで怒られたりね。でも、すぐ反省するんです。『さっきは悪かった。言い過ぎたよ』なんてね。だからサッパリとおつき合いができました」と、素晴らしいお声で詩吟を一節歌ってくださいました。

オムツ替えをとてもスムーズにやってくれてたスタッフさんに、「父とうまく息を合わせて、いつも手際よくやってくれてたね」と言うと、「いやいや、最初は怒鳴られました。噂に聞いてた藤井さんの洗礼を私も浴びました」と泣き笑いで。
父のお気に入りだった看護師さんは、「本当にたくさん可愛がってもらいました。いろんなことを教えていただきました」と温かい笑顔で。
事務的なことも含め一番関わってくれたスタッフさんに「気難しくて怒ることもあって大変だったでしょ?」と言うと、「でも、最近は本当にいつも『ありがとう、ありがとう』ってそんなにいいの? っていうくらい言ってくれてました」と。

父がどうしても納得しないことがあると説得に来てくださっていた所長さんは、「藤井さんはこんな私のことを所長さん、所長さんって言ってくれて、言うこと聞いてくれましたね。酸素(の管をつけるのが)イヤだったよね。ごめんね」と父に語りかけてくれてました。
ケアハウスのお一人おひとりが、本当にきちんと父と向き合ってくださっていて、私も毎週面会に行くのが楽しかった。
お正月以外、父は大磯の家に帰りたいと言ったことがなかった。居心地がよかったんでしょう。

2020年の夏、折しもコロナで世の中がオカしくなった頃、父は再度腰を痛めて、ひとりで車椅子を使ってトイレに行けなくなり、オムツになりました。
途端に何かを諦めたように気力がガクッと落ちてきて、さらにコロナで面会も制限されるようになり(それでも所長さんの意向で会えたほうです)、
ケアハウスの楽しいイベントや旅行などもなくなって、時間の感覚など認識力もどんどん薄らいでいきました。

2021年の11月には「もうおしまいだから、お正月は大磯でお願いします」と言ってたのが、12月には「長い時間座れないからやめておく」と言い出した。
「そうだね。もうあんまり頑張らなくていいよ」と思わず返した自分にハッとなったけど、もうその頃から私もそろそろかもしれないと予感してたんだと思います。12月17日の誕生日の後はお正月にするつもりだったけど、なんだかまた会いたくなって24日にも顔を見に行きました。

お正月の挨拶の後、最後に会ったのは1月14日。その日のfbに書いた通り、iPhoneに替えたら思いがけなく運転中ハンズフリーで父からの電話に応答できた。
時間にも厳しくて、ちょっとでも遅れると機嫌が悪い。
まだ遅れるってわかってないうちから運転中に電話がかかってくるんだけど、もちろん出られないから余計機嫌が悪くなるんじゃないかといつもドキドキしてた。
それがハンズフリーで出られるようになったから、これからはいくらでもかけてきていいよと思ってたのに、、、。あれが父と私の本当に最初で最後のハンズフリー通話になりました。

2001年に母が倒れて本格的に始まった私の介護道。
子育てには未来があって、聞いてくれたり助けてくれたりする人はたくさんいるけど、介護には未来がないから人にはあんまり話せない、と、ある時期まで思ってた。
でも、始めてみると父や母や介護に関わる人々から教えられることが多く、それを通して自分と向き合うこともできて、いや、これは確実に少なくとも私の未来にはつながっていると思えた。
だから、ありのままを書いてきました。

実は介護ってしゃっちこばって考えるほどのものじゃなくて、
生きていくなかでそれぞれがそれぞれの形で自然と出会っていくもの。
自分が大切と思う人の幸せを願うことなんじゃないかなとシンプルに思ったりしました。だから、こうしなきゃという考え方はしないようにしてました。
義務になっちゃうのがイヤだから、こうしたいと思うことをこうしたいと思うときにこうしたいと思うやり方でと心がけてた。
「お世話になっているおじいちゃん」を笑顔にしたくて。

笑顔になってもらえないときはシンドかったけど、一息ついてfbに書くと、父との関係における自分の独善的な思いや視野の狭さにも客観的に気づけて、次に活かすこともできた。
もちろん、活かしては忘れの繰り返しだったけど、同じようなことに直面してるfbフレンドの投稿に励まされることも多々。
だから、書き続けていました。

そんな長い旅が終わります。
21年間、ほぼ週一の大磯・平塚の往復、よく頑張った! 
父母とともに、そしてサポートしてくれた温かい人たちとともに、私もきっと何かを育てられたんじゃないかなと思います。
あんなに毎週会っていたケアハウスの人たちに急に会えなくなるのは寂しいけど、これも人生の一期一会ですね。

不思議なことに、ケアハウスの父の部屋を片付ける折りエアコンをつけようとしたら、リモコンが壊れてた。
帰ってきていつものように車のキーをポケットから取り出したら、電子キーにつながっていたキーホルダーが割れました。
「もう来なくていいよ」と父が言ってくれてるんだなと感じました。

何かの折に思い出を書くことはあるかもしれませんが、もう父のことをリアルタイムで書くことはありません。
だから、まさにこれが父のラスト・ライブだと思って詳細にレポートしました。
これにて父と娘の珍介護道中も一件落着。
読んでくださってありがとうございました!!

老いてなおよりよく生き抜く姿を見せてくれたお父さん、ありがとう!






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