見出し画像

リセット症候群の苦しみと改善方法

持っているあらゆるものを手放して、人間関係すらも0(ゼロ)にしたくなる『リセット症候群』。
人生は、ゲームのようにリセットしてやり直すことができないもの。けれど、それをやってしまいたくなる衝動を、あなたは知っているでしょうか。

10年前まで、私はリセット症候群だった。
周期的に訪れる「何もかも捨ててしまいたい」という強烈な衝動は、ある日突然ダムが決壊するかのように始まる。

こうなると、とにかく誰とも関わりたくなくなる。どんなに大切な人だと思っていても距離を取りたくなる。

自分がリセット症候群だとは、思っていなかった。そんな名前が付いていることも知らなかった。ただ気がつけば息苦しくなっていて、水面から顔を出す時のようにとにかく息がしたくなるのだ。その心の現象を、私はずっと「自分はなんて薄情なのだろう」と思っていた。

リセットしたいのは

リセットの衝動に駆られるとき、そこにはいつだって『期待』があった。期待だけではない。そもそも期待には、信頼がついてまわる。相手のこれからの行動を信じる、それを形どったものが『期待』だ。

期待をされることは嬉しい。けれど、相手の見ている『私』が、果たしてその期待に沿う人物なのかと考えると、怖くもある。なぜなら、私にはそんな信頼を寄せられるに足る人物だという自信もなければ、価値もないように思えていたからだ。

自分から見える『自分』と、期待を寄せられる──表向きの『自分』に距離を感じるようになると、期待は途端に私にとって真綿でつくられた細い細い糸になる。キリキリと首や手足に巻き付いて、徐々に私を締め上げていく。

別の見方をすれば、プレッシャーに弱いと評することができるかもしれない。
けれど、そういうものとは少し違うのだ。プレッシャーで緊張することはあっても、それを乗り越えた先の結果が何かわかるものに対しては、そんな緊張感ですら楽しめる。そんな性分の持ち主でもある。

ところが、期待は違う。相手の中で作り上げられる理想像だから、目に映らないのだ。その理想像は、いつの間にか私が私に向ける理想像に置き換わる。期待されたイメージと、現在の自分が離れていくことに私は言いようのない恐怖感と、現在の自分への失望を感じていた。

それに耐えられなくなったときに訪れるのが、リセットの衝動なのだ。

リセットの衝動は抑圧せずに超越する

リセットの衝動は、私はずっと抑えるものだと思っていた。だが、それは間違いだったと今だからいえる。奥底から膨大なエネルギーをもって突き上がってくるそれを抑えることは、人間が火山の噴火を手のひらで抑えつけようとするのと同じくらい不可能だからだ。

いうなれば、エネルギーそのものが“自我”なのだ。「本当の私を知ってほしい」という自我で、それは幼い子どもが親の手から自立するときに、親の手を振り払う自尊心と同じものだ。

膨れ上がったエネルギーが人の手でどうしようもないものならば、リセットの衝動に流されるしか対処する術がないように思える。けれどそれでは、いつまで経っても周期的に訪れる衝動を打ち消すことができない。

リセット症候群でつらいことは、自分への失望だ。上手く人と付き合えないこと、自分の行動に対する責任感のなさ。それのどこが信頼に足るというのか? そんな自分が持っているであろう価値への揺らぎが、自分というアイデンティティの足場を崩していく。

その足場は、自信や自尊心の礎となるものだ。盤石な足場で積み重ねられた自尊心は、自分の価値を自分で認めるには欠かせない。逆に、沼地のような足場に積み重なった自尊心は、ときに脆く簡単に崩れてしまう。

では、どうすれば確固たる足場に自尊心を積み重ねられるのか?
それは『行動』しかない。自分で自分の価値を信じられる、その信頼を自分に積み重ねていく。その『行動』をただひたすら繰り返すしかないのだ。

そういう意味では、リセット衝動は抑えるものよりも、超えていくものと表現したほうがしっくりだろう。

リセット衝動を超越する『行動』とは

先にも少し触れたが、衝動は抑圧してもキリがない。ならば、超越するしか手立てがない。けれど、超越のための『行動』は、たった一度行動するだけでは意味がない。なぜなら、行動することによって本来の自分(あるがままの自分)を晒していける、その根源になる自己信頼感を築くことに意味があるからだ。

そのためにも、自分が“どんな自分でいたいのか”を考えることは、とても重要だ。それが行動指針になるからだ。自尊心が低いと、つい『自分はこうなりたい』と、自分の理想像を現在の自分とは遠くに置いてしまいがちになる。自尊心が高い人にとって、それはとても有効な手段になる。けれど、自尊心が低いと、『なりたい自分』を追いかけるのは自分への失望を加速させる。

“どんな自分でいたいのか”という視点で考えれば、一つひとつの事象に対して、自分がどんな行動を取ればいいのかがわかりやすく、見つけやすくなる。『なりたい自分』がゴールだとすると、『こうありたい自分』はそこへ続く一つの標(しるべ)となる。その標を一つ通過するごとに、それが小さな自信のカケラ──自尊心の土台になっていく。

イメージとしては、日本各地にある城の石垣を思い浮かべるとわかりやすいかもしれない。自分が城という建物であったとしたら、自尊心は石垣のうちの石の一つだ。

内側から見る『自分』と表面的な『自分』の距離感が離れていくことに悩んでいると、実際に行動してもつい挫けてしまいそうになることもある。そんなとき背中を押してくれる人や寄り添ってくれる人の存在は、とても重要だ。

それは、誰かに甘えるということではない。リセット衝動を抱える人は、私を含めて他人に甘えることが極端に下手なのだと思う。甘えることは、自分の内側をさらけ出すことになる。特に、自分の中でも柔く弱い面を出すことになる。甘え下手は、それを怖がりやすい。

恐怖心を持ってしまう理由は、人それぞれ違うかもしれない。他者が持つイメージを壊してしまうことによる失望。弱さを見せることによって、他者に利用されるのではないかという不信感。それらをひっくるめて浴びる失望からの絶望感など。(私の場合は、こちらに当たる)

自分の弱さやダメさを認めることが対処の第一歩

リセット衝動は、他者のイメージ(理想像)と自我との乖離によって誘発される。だとすれば、現在の自分が目を伏せている弱さやダメさに目を向けることも、衝動を乗り越える一つのキッカケになる。

目を向けるのは、つらいし苦しい。一度目を向けてしまったなら、なかったことにはできないからだ。認め、受け入れて、それらと一体化するしか道がなくなる。「心の綺麗な自分」を理想としている人が、自分のなかに眠るどす黒い感情を受け容れるのが容易でないように、"否定したい自分"を自分自身で認めなければならなくなる。

認めた先に広がる景色は、今よりもずっと明るく心地の良いものなのだが、暗いトンネルの中を歩いているうちは、それよりも手短なところで出口を探してしまいたくなる。そんなとき隣に誰かがいるだけでも、暗闇を歩く恐怖心は薄れる。

けれど、注意しなければならないのは、どんな相手を選ぶかだ。弱さを見せられない相手では相手の理想をなぞろうとしてしまうし、弱さを見せられても相手に依存してしまうような間柄では、自尊心の足場を相手の軸に合わせてしまうことになる。それでは、自立した自尊心を積み重ねることにはならない。

リセット衝動を超越するには、自分軸の自尊心を持つことが大切なのだ。

衝動の原点を探る

第2のステップは、衝動になっている原点に目を向けることだ。『自尊心のない自分』という答えは、衝動を起こす真の原因ではない。あくまでもそれは真の原因を覆い隠す一つの殻や蓋のようなもので、その奥に本当の理由が隠されている。

私の衝動の原点は、子どものころに遡る。親が望む『子ども』を演じ続けた子ども時代だった。ありのままの自分では受け入れてもらえない。『私』に目を向けてもらうために、親が無言で求める親にとっての『子どもらしさ』を振舞い続けた。それはときに『優等生』で、ときに聞き分けの良い『聡明な子ども』で、またあるときには『屈託ない無邪気な子ども』だった。

常に親の理想があり、それに沿う子どもであるように努めていた。今でこそ親とは程よい距離感だが、思春期のときは"自分なのに自分でないような感覚"がずっとどこかにあった。(実際、何度も自分の意識が自分の体から離れた遠い場所から眺めている光景を何度も目にした。)親に対して面と向かって反発することもできず(諦めてしまったといったほうが正しいかもしれない)、かといって拒絶することもできなかった。

いつしか自我と周囲の自分に距離ができていた。子どものころは、それが自分のあるべき姿だと思っていた。だから、何の疑問もなかった。

でも、それが少し違うのではないかと思えるようになったのは、もっとずっと後だった。けれど、私の知らないところで耐えきれなくなった自我が、リセットしたいという衝動として起きるようになっていった。

原点を知り、受容できるようになると、何が自分の中で起こっているのかがわかるようになった。リセットの衝動が起こるときも、その予兆を感じ取ることができるようになった。今では、自我との乖離が起こらないように、常に「自分がいま、どこを向いているのか」を見つめるようにしている。

リセット衝動は自我エネルギーの暴発

「何かもリセットしたい」という衝動は、自分の中に息吹く自我が、自分のなかにある『自身』の存在を、「ちゃんと認めてくれ!」と叫ぶ声でもある。

他者との関わりの中でつい自分を偽ってしまったり、本音を抑えてしまったり、相手に合わせてしまうようなことがあると、本来の自分が呼吸不全を起こしてしまう。すると、とにかく息がしたくて、足かせとなっている人間関係を捨ててしまったり、距離を置きたくなってしまうのだ。

ありのままの自分を出すことが苦手な人は、特につい相手の顔色を見て、言いたい言葉を飲み込んだり、衝突を避けるために“いい顔”をしてしまうことも多い。それが本音と一致しているならどうということもないが、大抵の場合、本音と不一致を起こしている。だから、本来の自分とのギャップに耐え切れなくなってしまう。

そんなことは、オトナになればよくあることで、特別なことではないかもしれない。それでも、たった一人でも本音を言える相手がいれば、そこでエネルギーを放出することができる。ところが、ありのままを曝け出せる相手がいないと、エネルギーは自分の中でどんどん膨らみ続けることになる。

そしてある日、突然暴発して、周囲を驚かせる。エネルギーを上手く放出できれば、リセットしたいという衝動は起きない。つまり、自我エネルギーをコントロールするには、抑圧ではなくどこにそのエネルギーを出すのかがカギとなる。

私の場合は、「自分がこうありたい」と思った自分に、いまの自分を少しずつ近づけていった。ときには逃げ出したくなるようなこともあったが、それを踏ん張り、一つ一つ行動を積み重ねた。

きっと一人だったら、踏ん張れなかっただろうと思うことも多々あった。そんなときは、学生時代からの友人が時には背中を押してくれ、ある時には並んで歩いてくれた。

長く付き合っていると、ある程度相手に対してのイメージがあるものだ。だが、友人はそれよりも『今の目の前にいる相手』に意識を向けてくれた。そのおかげで、どんなイメージを持たれていようとも、見せることを躊躇してきた自分を見せることができた。


現代では、自分の思う『自分』とは違う自分を見る人がたくさんいる。特にSNSなどのように関わるチャネルが限定的だと、自分を作るつもりはなくても、知らず知らずのうちにイメージができていることもあるかもしれない。

リセット症候群は、誰でも起こり得るものだ。それで大切な何かを失ってしまうことがないように、今の自分は「在りたい自分に合っているか」を見つめる機会は必要だろう。もしも乖離していると感じるならチューニングする勇気も必要かもしれない。

よろしければサポートお願いします! いただいたサポートは活動費や書籍代に充てさせていただき、得た知見などは改めてnoteでシェアします♬