見出し画像

感情との向き合い方

最近、思うことがある。
仕事で小説を書かせてもらう機会があるのだけれど、そのたびに自分には何か足りていない気がして仕方がないのだ。それは、表現力なのか、それ以前に人間的な部分で何かが足りていないのか。ずっと自問自答を繰り返し続けているのだが、唯一のキーワード『感情』という以外に、答えが一向に見えてこない。

今日のnoteは、『感情』にスポットを当てたものを書いてみようと思う。
(※4,500文字程度の中長文になっています。)

あなたは自分の感情と、普段どんなふうに向き合っているだろうか?

人間の感情はグラデーションだ

マンガや人物画を描いたり、写真を撮る人ならわかるかもしれないけれど、小説では人の感情の機微を文字にする。感情は『喜怒哀楽』と大きく4つに分けられているが、実際にはそのまま4つの言葉で言い表せるものではない。

たとえば、近しい人や大切な人を失ったときには、悲しみ、寂しさ、悔しさ、怒りなどいろんな感情がない交ぜになる。それがたとえ大往生だったとしても、悲しみや寂しさはあるはずだ。

こんなふうに、感情はきっちりとパーテーションで分けられているわけではなくて、他の感情と混ざり合うことが多い。それを表現するときに、どういう言葉を使うかで伝わる感情が変わってくる。他人に感情を説明するのが難しいのは、感情自体が感覚的なもので、画一的なものではないからだ。

本当の感情表現は自分と向き合うことから始まる

感情は、感覚的なもの。だから、自分ではピッタリだと思える表現でも、他人にとってはイメージしづらいこともある。混ざり合った感情を一つひとつ説明するには、自分と向き合って、その感情が何なのかを分析しなければならない。

小さな子どもが、喜怒哀楽のうち『喜』や『楽』を表現するのは、感情の中でも比較的シンプルだからだ。心がワクワクしたり、胸が弾むようなドキドキする感覚は、直情的で表現しやすい。けれど、「寂しい」「悲しい」「悔しい」という感情は、複合的なもので複雑に絡み合っていることも多い。

私自身、この3つの感覚は、自分でも鈍いほうだと思う。
20年ほど前に母代わりだった祖母が他界したとき、2年前に後輩であり大好きな友人が亡くなったとき、いいようのない虚無感と虚脱感に襲われた。胸にぽっかりと大きな空洞ができてしまったような感覚だった。それを寂しさと表現するのなら、「寂しくて死にそう」という言葉は理解できると、あとになって思ったものだ。

感情には必ず起点が存在する

感情には、起点がある。それは欲求だ。言い換えれば、「○○して欲しい」「○○したいができない」といったものだ。
感情の表面だけを捉えていると、その奥に隠れた心の本音(欲求)を見過ごすことになる。見過ごさずに、きちんと見つけて、すくい上げて声を聞いてやれば、本当の欲求が見えてくるのだと思う。

その欲求を理解すれば、発現している感情がどんな種類のものなのかがわかってくる。

感情を紐解くことで人間関係は円滑になる

子どもが親に構ってもらえずに、泣き出したり、甘えたり、怒ったりすることがある。これも、行動から感情、感情から欲求を因数分解のように紐解いていけば、その行動の理由がわかる。もちろん、そんなに簡単にわかれば親も頭を悩ませることはないのだが、これは何も子どもに限った話ではない。

体や年齢は大人になっても、自分の感情との向き合い方を知らない人は割合多い。特に、子ども時代に家庭に問題があったり、親自身が問題を抱えていると、子どもは自分の感情と向き合うことをせずに大きくなってしまう。そのため、オトナと呼ばれる立場になってから困ったことが起こることも少なくない。

『怒』の感情が湧き上がったときには、「なぜ、腹が立つのだろうか?」と考えてみる。その背景に悔しさ、悲しさ、寂しさといった感情が隠れていることがある。

たとえば、妻が何だかイライラしている。夫はそれに対して理由がわからず、イライラだけが伝染し、家庭内が険悪な雰囲気になる。なんてことも、よくある家庭の風景の一つだ。

妻のイライラは、妻自身が解決すべき問題なので、本来夫側が気を揉む必要はない。だが、そこは夫側の優しさゆえのことなのだろう。当の妻はというと、「どうしてわかってくれないのよ!」なんてことを思っていたりするくせに、口に出さず態度で示しているといったこともよくあることだ。

「言わなければわからない」のは、当たり前のこと。それがわかっていても、「言われなきゃわからないの」と思ってしまう妻側。そもそも妻自身、そのイライラの原因をどこまで自分で把握しているのだろうか。

ゴミ捨ての日の朝に、ゴミを捨てずに出勤していく夫。妻は子どもの世話で忙しい。気が利く夫なら「妻は忙しそうだ。外に出るついでに捨ててやろう」と、何も言わずにスッとゴミを運び出してくれるだろう。けれど、世の中そんな夫ばかりではない。それがわかっていても、やってくれないことにイライラするのは、相手に期待をしているからでもあるが、その根底には「協力してほしい」「助けてほしい」という思いがあるはずだ。

感情を直にぶつけても、その奥に隠された欲求なんて、当人にしかわからないものだ。その欲求が解消されない限り、いくらでも感情は湧き上がる。逆に、感情の奥にある欲求をきちんと言葉にすることができれば、人間関係はスムーズにいくことが多い。

話して伝わる人と話しても伝わらない人がいるのは、向き合い方が違うから

好感情は、ぶつけられてもダメージはない。けれど、悪感情はそのエネルギーに比例して、ぶつけられると受けるダメージは大きくなる。建物を解体するときに使う、大きな鉄球をイメージしてみるとわかりやすいかもしれない。

鉄球をぶつけると、そのぶつかった衝撃で建物は崩れていく。その衝撃は鉄球にも伝わって反動を呼ぶ。鉄球が感情の塊だとしたら、建物はぶつけられる相手の人間だ。先にダメージを負うのは、ぶつけられる側なのだ。

話して伝わる人というのは、この鉄球(感情)から受けるダメージを面ではなく点で受け止めている人だ。なぜ、点で受け止められるかというと、自分のなかにある感情と向き合うことができているから、物事を細分化して考えられる。つまり、感情を因数分解できている人ということでもある。

話しても伝わらない人というのは、この鉄球(感情)から受けるダメージを面で捉えてしまう人だ。自分のなかの感情を因数分解しきれていないので、感情を感情のまま受け止めてしまう。なので、感情の応酬になってしまい、人間関係が破綻しやすくなる。

自分の感情と向き合える人と向き合えない人がいるのは、向き合う勇気の差

人間関係を円滑にするなら、感情と向き合うことをもっと大切にしたほうがいいと思うだろう。それでも、なかには自分の感情と向き合える人と向き合えない人がいる。特に、普段から愚痴など不平不満が多い人は、自分の感情と向き合うことを避ける傾向にある。

自分の感情と向き合うことは、非常にエネルギーを要する。そのエネルギーとは、近い表現を使うとするなら『勇気』だろう。勇気とは、まさに立ち向かっていく気力そのものを指す。

感情に立ち向かうことは、その奥にある欲求に目を向けることになる。欲求には、いろんなものがある。良い欲求ばかりではないのだ。なにせ、その人の本音を露にするのだから、ドロドロとした汚いものもあれば、醜いものもある。それらに目を向けることになるのだ。

誰も茨で覆いつくされた道を、わざわざ入っていきたいとは思わないだろう。あちこち傷だらけになるのは、目に見えているのだから。でも、そこに飛び込む勇気がなければ、感情の奥に目を向けることなどできない。

けれど、その道を通り抜けた先にあるのは、花畑とまではいかないまでも、すっきりとした青空が広がる穏やかな大地だ。自分の感情をコントロールすることができるようになるので、やたらと文句を言うこともなくなるし、前向きに人生を楽しむこともできるようになる。

感情は制限せずに調整していくことで生きやすくなる

感情は、ありのまま放出することがいいと言われることもある。けれど、これはある一部の人に限っての話だ。それも、感情に蓋をし続けて生きてきた人に向けてに限る。

そうでない場合は、感情をありのままぶつけることは、本来の欲求から目を背けることになり、ひいては本音を見過ごしてしまうことになるので、コントロール(調整)する力をつけていくことが大切になってくる。

感情を抑えるという言葉があるが、私自身は感情は抑えるものではないと思っている。感情とは、生きた欲求だ。それを感情というわかりやすい表現で、自分自身に示してくれているのだから。それを抑圧することは、子どもが泣いて乳を欲しがるのを無視するのと同じだ。

取り上げてもらえなかった欲求は、どんどん胸の奥に閉じこもってしまい、しまいには感情という声すら発しなくなってしまう。これでは、感情と向き合う意味がない。むしろ、悪循環だ。

「自分がなぜ、そう思うのか?」この自問自答を繰り返していくうちに、ちゃんと心の声(欲求)に気づくことができる。だが、気づくだけではなく、ちゃんと欲求を叶えてやることが重要だ。これが第2段階だ。

欲求が叶うことがわかれば、感情はもっとスムーズに表現できるようになる。けれど、その感情はたいていの場合において、向けられる相手がいる。その相手は、自分とは違う人格・価値観・考え方を持っているので、ありのままの感情を表現したところで、伝わらないことも出てくる。だから、どう表現するのかという調整──つまりチューニングが必要になってくる。

それまで自分の感情としっかり向き合ったことがない人にとっては、感情がスムーズに表現できるようになるだけでも、ずいぶんと生きやすさは変わってくるだろう。だが、人は単独では生きてはいけない。誰かと常に関わり合って生きているし、そうやってでしか生きていけないからだ。

だから、感情を垂れ流しにしてしまうと、今度は人との距離感で生きづらさを感じるようになってしまう。自分を大切にしながら、人とうまく距離をとっていくには、感情のコントロールがとても重要なのだ。

感情表現に『言葉』は欠かせない

感情を上手に表現するには、『言葉』が鍵になる。逆に、感情表現が下手な人ほど、適切な言葉を知らないことも多い。表情豊かに見える人でも、単純な喜怒哀楽しか表現する言葉を知らないと、心のうちに闇を抱えることもある。表現できることは、それほどまでに自分を相手に伝える手段として最適であり、最も有効な手段なのだ。

「あの人に言ってもわかってくれない」そう思う前に、自分の表現力が相手に伝わる適切なものだったのか? 考えてみることも、人間関係でトラブルを減らす有効な手段の一つではないだろうか。


長々と書きましたが、これは誰かに当ててというよりも、自分の表現力や感情の欠損を見つめるためでもあったので、伝わりづらい・わかりづらい表現があったかもしれません。
私と同じように、悩む誰かにとって少しでも肩の荷が下りる、そんな記事であったなら幸いです。

よろしければサポートお願いします! いただいたサポートは活動費や書籍代に充てさせていただき、得た知見などは改めてnoteでシェアします♬