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淀殿は秀吉が仕掛けた、豊臣家のブランディング

※これは、殿村が独自のPR視点で読み解いた歴史の解釈です。
 「こんな考え方もあるんだ」と笑って、お読みいただければ幸いです。

目的は、デザイナーベイビー

 16人もいたと伝わる豊臣秀吉の側室。その中でたった一人、淀殿だけが嫡男を2人も産みました。歴史上、運のよかった女性と言われますが、現実問題として、運だけでそんな快挙を成し得るものでしょうか?

 正室の北政所も含めて20人近くの女性にできなかった秀吉の子を、淀殿だけが2人も産んでいるのは、どう考えても不思議です。
しかも淀殿が初めて懐妊した時、秀吉はすでに52歳。
「人生50年」と言われていた戦国時代、しかも医学が発達していない環境下では「あり得ない」といっても過言ではないでしょう。

 そこで独自の視点で、なぜ淀殿だけが懐妊したのか、さまざまな史料をもとに読み解いてみました。

 すると、現代でいうデザイナーベビー(遺伝子操作によって理想的な子どもを計画的につくること)と同じような戦略が見えてきたのです。

 もちろん戦国時代に遺伝子操作などできるはずもありません。
 しかし豊臣家のブランドを守るために、血筋の良い子どもを作ろうとしたと考えれば辻褄が合います。
 なんといっても、淀殿は織田信長の血をひく女性ですから。

百姓の家系では家臣がついてこない

 組織ブランディングの観点では、豊臣家は秀吉が百姓の出身であることが大きなリスクになります。しかも秀吉には子供がいなかったため、弟の秀次が天下を継ぐ予定でした。

 血筋が重んじられる戦国時代、天下に君臨する豊臣家を百姓の家系で継承するなど至難の業だったに違いありません。

 現代に例えるなら、豊臣家はカリスマ社長のブランドだけで急成長したベンチャー企業のようなもの。
 急成長したものの組織の基盤が固まっておらず、事業継承ができない状態といった状態でしょうか。
 秀吉の死とともに戦国武将たちが「豊臣家はただの百姓。武士は従えない」と離れてしまう可能性は十分に考えられたはずです。

 そんな時、目の前に、戦国武将がひれ伏す織田信長の血を引く女性が現れたら、どう思うでしょうか。
「この娘が秀吉の子どもを産んだら、織田と豊臣の両方の血を引くことにな
る。戦国武将たちは従うに違いない」と考えても不思議ではありません。

豊臣秀吉をまつる「豊国神社」(京都市)

秀吉の嫡男が生まれるたびに出世した大野治長

 淀殿は織田信長の妹・お市の方と、近江の戦国大名・浅井長政の間に生まれた長女です。信長の血をひくだけでなく、戦国一の美女と謳われたお市の娘ですから、秀吉から見ると、家柄も見た目も最高のブランド娘に見えたことでしょう。

 そんな超ブランド娘が、いきなり自分の手元に転がり込んできたのです。
豊臣家としては「渡りに船」だったのではないでしょうか。

 一方、淀殿も不幸ではなかったと思われます。
 なぜなら、大坂城で気の許す相手と“事実婚”のような、幸せな暮しをしていたからです。

 淀殿が“事実婚”した相手は、乳母・大蔵卿局の子ども大野治長。治長は淀殿と幼い頃から共に育った幼馴染みでした。

 つまり、秀吉が提示した条件「表向きは秀吉の側室となり、産んだ子は秀吉の子とする」を受け入れたことで、淀殿は気の知れた幼馴染みと事実婚をして秀頼を産み、大坂城で親子三人、幸せに暮らしていたと考えられるのです。

 しかも秀吉が出した条件は、淀殿から見れば子供が天下人になると約束されたことにもなります。夫の将来も安泰で自分は天下人の母。悪い条件ではなかったでしょう。

 この仮説を裏付けるように、大野治長は、淀殿が側室になったことで秀吉に約3,000石の馬周衆に取り立てられ、淀殿が鶴松を生んだ天正17年(1589年)、1万石の大名に出世しています。

 さらに秀頼が生まれた翌年の文禄3年(1594年)には、伏見城の普請に携わるなど淀殿が子どもを産むたびに異例の出世を遂げているのです。
 これは淀殿に懐妊させる、いわば“種馬”としての役割を果たしたから、と解釈すると腑に落ちます。

 さらに大野治長が秀頼の実の父であることは、奈良興福寺の僧侶が三代にわたって書き綴った記録「多聞院日記」や秀吉の朝鮮出兵で捕虜にされた姜沆が書き綴った「看羊録」にも記されています。
 ほぼ間違いないと考えても良いのではないでしょうか。

豊国神社に隣接する方広寺の鐘

淀殿は幸せだった

 秀吉の死後、大野治長は秀頼の側近として仕え、慶長20年(1615年)の「大坂夏の陣」では、徳川家康に「自分の切腹を条件に秀頼と淀殿を助けてほしい」と願い出ています。

 このことは「大野修理沙汰して最後に切腹なり。手前の覚悟比類なし」(春日社司祐範記)と讃えられていますが、その願いは受け入れられず、秀頼、淀殿とともに大坂城で自害しました。 

 結局、約束されたはずの明るい未来は徳川家康に壊されてしまいますが、淀殿は最後まで治長と秀頼と3人で過ごし、一緒に自害することもできました。もしかしたら幸せだったかもしれません。

中小・ベンチャー企業ブランディングのお手本に 

 この話が真実だとしたら、現代の中小・ベンチャー企業ブランディングのお手本になります。

 なぜなら、豊臣家も中小・ベンチャー企業も、まだ社会の確固たる信用を得ていなかったから。戦国時代に急成長した豊臣家でも、秀吉が死んだ途端「百姓の家系では家臣たちがついてこない」と対策を打ったのです。
 中小・ベンチャー企業の場合、社長がいくら頑張っても、その次の戦略を考えなければ、簡単に社会から見放されてしまうでしょう。

 しかも、中小・ベンチャー企業の多くは、社長自身が企業ブランドになる段階から始めなければなりません。時に、まったく社長が表に出てこない企業がありますが、それは社会から見ると「顔なし」と同じです。
 なぜなら、企業は社会において「法人」と見なされているからです。

 社長はみずから表に出て、社会の信用を得て企業ブランドを作らなければ、その企業に明日はないのです。

 ちなみに、社長が企業ブランドになった次の段階で、淀殿のような超ブランドを幹部に迎えることは、あまりおススメできません。
 なぜなら、納得できない古参の幹部が、徳川家康のようにクーデターを起こしかねないからです。

豊臣家滅亡のキッカケになった方広寺の鐘に刻まれた文字
徳川家康が激怒したと伝えられている。

社長自身がブランドになるために

 そうは言っても、どうしたら自身が企業ブランドになるのか、皆目見当がつかない社長も多いと思います。

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