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花鋏への誓い

10代の頃から、学校の勉強、古典文学の研究、社会人としての仕事など、ずっと文字と言葉によって他者からの理解や評価を得ようとした生活を送り、そのおかげで社会人としてなんとか生活できるようになったものの、40代に入った頃から、頭の真上が何かでつかえているような感じがしていた。

いろいろと考えた結果、そういった生活を送ることで無意識のうちに切り落としてきた、心動かされる何かによって感じたことを、文字や言葉とは違う方法で、心のままに表現してみたいという思いに気がついた。

ここ数年、花を活けていると、花の香りや色合い、緑の葉の瑞々しさ、紅葉した葉の温かな風合いなどに癒されて、心地よい集中が得られると同時に、心身がリラックスしていることを感じていた。

そこで花を活けることで何かを表現してみようと思い、昨年から、投げ入れ(オアシスや剣山など花留めを使わない活け方)のお稽古とアレンジメントのレッスンに通うことにした。

それぞれの教室に通いはじめて一年ほど経つが、当然のことながら、どちらも思ったように何かが表現できているわけではない。

でも、家族のサポートと勤務先の仕事の両立とで悩んでいたとき、就寝前に花の水を取り替えたり、葉を剪定しながら活けなおしたりすることで、少しずつ心の整理がついていったことも、たしかだ。

特に、投げ入れのお稽古の先生には、花だけでなく、人生の先輩として、いろいろなことを話していたため、悩んでいることを打ち明けたとき、こう言ってくれた。

「転機を迎えているのね。こういうときは、あれこれ頭で考えるより、心が感じる方に導かれていくものよ。大丈夫よ」

花を扱う職人として、経営者として、家庭人として、さまざまなことを経験し、そのたびごとに人との縁と自身の想いに導かれてきたからこそ、目の前にいる人の可能性を心から信じ、温かく見守ることができる先生。

その言葉に、これから先どうしよう……とこわばっていた気持ちが、ふっと軽くなり、自分なりの一歩を踏み出してもいいのかもしれないという力強い気持ちが、私の中に湧き上がってきた。

そして、転機とその変化を受け入れた生活が少し落ち着いた先日、久しぶりにお稽古に行った。使っていたクラフトバサミがだいぶ切れなくなってきたので、買い替えようかと思っていたところ、先生から、そろそろ本格的な花鋏を持ったほうがいいわよと勧められた。

出してもらったいくつかの鋏の中から、重さや手に馴染むものを選んだ。

今はもう、あまりいないという職人さんが、一つひとつ丹精込めてつくった花鋏を前にすると、自分の技量が追いついていないのが恥ずかしく、申し訳ない気持ちになる。

一方で、クラフトバサミとは比べ物にならない刃の鋭さに一瞬ひるむ。花と向き合う覚悟を問われているようで、持つのがこわい。

それでもクラフトバサミのときには聞こえなかった、カチンカチンという鉄がかち合う音が、心地よく、この暑さと日常のあれこれを忘れさせてくれる。

まだ鋏の持ち方、使い方、手入れの仕方になれないけれど、この鋏をにぎるたびに、花ともにある人生でありたいという、誓いにも願いにも似た気持ち込みが上げてくる。

先生が著書の中で、「花は鋏一つあればどこでもやっていける」と語っていたのを読んで、この世界に飛び込んだ。

私は、花とともにある人生のスタートラインに、やっと今、立てたのかもしれない。



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