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多様性のある社会に必要なのは覚悟

ここ数年、多様性の豊かな社会をつくろうという明るい雰囲気がある。しかし私には、多様性のある社会づくりはそんな生やさしいことだとは思えない。

"豊かな社会"には清濁を併せ呑む覚悟が必要だ。私は小学校以降の経験から強くそう思っている。今日はちょっと重くて長い文章です。

多様性に揉まれた小中学生時代

私は、大阪のとある地域に生まれた。同じ町内に父方の実家があった。私の曽祖父の代から同じ場所で建設業を営んでいるため、祖父は地域の事情をよく知っていた。

「そこのマンションの土地は大阪大空襲で一面焼けた場所でな」
「あの道から向こう側は、在日の人らが戦後に栄えさせたんや」
「ここの工場街は昔は栄えてたけど、もうあかんな……」
「あっこの橋の下はもともと部落の人らの集落があったとこ」
「あそこらへんは古いアパートが多いから、困った人らの頼みの綱やな」
「この川沿いは昔、〇〇組がみかじめ料をせしめとった」

幼い頃からそういった話を聞いていたので、この土地にはさまざまな事情を持った人が住んでいることをぼんやりと認識していた。

実際、小中学校には事情を抱えた子たちが多くいた。

韓国、北朝鮮をはじめ、中国、台湾、フィリピン、ブラジル、アメリカなど外国籍にルーツを持つ子。日本人だけど、親が読み書きできない子。反社に属する親を持つ子。無戸籍の子。親が蒸発したり、自殺したりして祖父母に育てられている子。親が水商売をしていてほぼ一人暮らしの子。家にシャワーや冷暖房器具がない子。

その子たちとは別に、身体障害を持つ子や自閉症・知的障害を持つ子もいた。のちにLGBTとして生きている子も(大人は気付いていなかったけれど、子どもの中では受容されていた)。

新興の住宅に移り住んできた、いわゆる普通の子も当然いた。属性が重なっている場合もあった。皆、同じ教室で育った。

多様性の縦と横

小説家のカズオ・イシグロは、多様性には縦と横の方向性があると言及している。

俗に言うリベラルアーツ系、あるいはインテリ系の人々は、実はとても狭い世界の中で暮らしています。東京からパリ、ロサンゼルスなどを飛び回ってあたかも国際的に暮らしていると思いがちですが、実はどこへ行っても自分と似たような人たちとしか会っていないのです。

地域を超える「横の旅行」ではなく、同じ通りに住んでいる人がどういう人かをもっと深く知る「縦の旅行」が私たちには必要なのではないか、と話しています。自分の近くに住んでいる人でさえ、私とはまったく違う世界に住んでいることがあり、そういう人たちのことこそ知るべきなのです。

東洋経済オンライン「カズオ・イシグロ語る「感情優先社会」の危うさ」より引用

私がいた教室には「縦の多様性」が確かに存在した。

小学生の時のクラスには、家に裁縫道具も母もいない子がいた。いつも洋服のボタンが取れていて、服はほつれていた。時々、見かねた私の母が繕っていた。

中学生の時、ヘイトスピーチを目の当たりにした在日コリアンの子は、

「国に帰れって言われるけど、私の国はどこなん? あんたなら頭ええし、わかるやろ? 教えてや」

と目に涙をいっぱいに溜めながら、私に問いかけた。私は何も答えられなかった。

大人になって当時を振り返った時、私が体験したことは"豊か"だったのだろうかと逡巡してしまう。

多様な地域社会で体得したもの

最近『思いがけず利他』という本を読んで気付いたことがある。私はあの地域で「あの子と私を分けたのは、ただの偶然だった」という認識を自然と得ていた。

たまたま、私はこの親の元に生まれてきただけであって、違う環境に生まれていたら私だって大変な目に遭っていたかもしれない。どこかのタイミングで親が亡くなったり、失職したり、私自身も含めて事件や事故に巻き込まれたり、病気になったりすれば、その立場になっていた可能性は十分にある。

在日コリアンの同級生らには、韓国籍と北朝鮮籍がいた。生活とは関係ない38度線という一本の任意の線で、彼らが背負うものはあまりに違いすぎていた。

その線が30度や45度の緯度だったら? その一本の線が日本にも存在したら?

起こった出来事はすべて偶然で、状況が少し違えば私にだって降り掛かっていたことだと若い私は思い知った。そして、相手の事情を相手の立場から見る技術を自然と身につけていった。

薄氷を踏むような感覚の「偶然性への自覚」は、縦の多様性に生きた私の中ですくすくと育ち、共感力を養っていてくれたと気付いた。

日本の多様性は自己責任論を連れてくる

「偶然性への自覚」を持つと、メリットばかり享受できるわけではない。

ある時、それこそ本当にたまたま海外で、同じ地域で育った歳の離れた方と友人になった。お互いの小中学校時代の思い出を話しながら、彼女の発した一言は非常に共感できるものだった。

「できる限りの努力しなければ、スルッと落ちていってしまう事例がすぐそばにあるのが怖かったなあ。落ちても救いあげてもらわれへん子もいたやん? 何とかサバイブしなあかんって必死に勉強したわ」

確かに学校や地域にはセーフティネット機能もあったけど、そこからこぼれ落ちて貧困や家庭内暴力のループにハマる子を何人も見てきた。そういう子ほど、周りを試す。疲れた大人たちが手を離して、戻ってこなかった子を私は知っている。そして見離した大人は、決まってこう嘆いていた。

「あいつの努力不足や。こんなにしてやったのに」

日本で多様性を知ることは、自己責任論を肌で感じることと同義だ。

私の父は仕事で被差別地域出身の方への職場斡旋事業を担当していた時期がある。その時の取引先には「読み書きができないのなんて、本人の努力不足。そんな人間は雇われへん」と断る企業もあった。父と母は食卓でそのことを話題にしながら「何も知らん人が多すぎる」と憤っていた。

人には偶然存在した環境によって、選べない選択肢や得られない能力がある。それは本人の意思とは関係なく決められている。

でもその事情を知らない人からしたら、起こったすべてのことは自らの責任であり、結果はすべて本人が背負わなければならないのだ。

だから私も先の友人と同じように勉強した。

当時はうまく言語化できていなかったが、彼女の言葉のおかげで「自らの努力で勝ち取った学歴を世間に認めてもらわなければ、万が一の時に誰も助けてくれない」と感じていたことを認識できた。

自己責任論が渦巻く世の中で何かあった時に助けてもらうには、努力した証がいる。勉強が好きという気持ちもあったけど、「偶然性への自覚」はそんな恐怖感も抱かせた。

地域社会から出て痛感したこと

猛勉強して受かった高校で、私はある衝撃に見舞われる。

「在日も部落も歴史の勉強で習ったで」

ほとんどの同級生たちの身近には、事情を抱える人たちの存在も彼らの困難さを知る機会もなかったのだ。もちろん同じような環境から進学した人も数人いたが、あまりの温度差に驚いてしまった。彼らにとって、それらは過去の話だった。

この時生まれてはじめて、私は自分の生まれ育った環境に心から感謝した。「きっと私は、とてつもなく大事な何かを学んだのだ。うまく言葉にはできないけど、これはずっと私が考えなければならない問題だ」と。

その後、私の経験を言語化できる学びを得たくて社会学科を専攻した。

しかし大学の卒業論文では、教授からの「就職に響くけど大丈夫か?」という一言にたじろいで、在日外国人の方に関する論文テーマを広告コミュニケーションについてのテーマに差し替えてしまった。

卒業後、とてつもなく後悔した。清濁を併せ呑む覚悟が私にはなかったのだ。今はいつか大学院に行って、きちんと学び直したいと考えている。

清濁を併せ呑み続ける覚悟

多様性がもたらすものは"豊かさ"ではなくて、常に自分の存在を問われるような葛藤だと思う。

自分や誰かにとっての悪や善を社会で内包していく。そこに完全無欠な正解はない。多様性のある社会の維持には葛藤を抱える覚悟がいる。

私が私であることの偶然性に驚きながら、さまざまな事情と共存する社会。多様なものの見方を、痛みを伴いながら共有していく。そこに新たな理解が生まれ、結果的に"豊かさ"が蓄積されていくのだろう。

今の私にその覚悟があるのだろうか。親となった私に、子どもにそういった視点を与え、見守り、困難を一緒に受け止める覚悟があるだろうか。



数年前、小中学生時代の友人から、ある事情で行方がわからなくなっていた子を「産婦人科で見かけた」と電話があった。「赤ちゃんを抱いていて、一人ではなくて笑顔だった」と。電話口で私は泣いてしまった。電話をかけてきてくれた友人も泣いていた。

どうか誰もが笑顔になれる社会であるように、葛藤を抱え続ける強さと覚悟を持つ人間でありたいと思う。


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