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誰もが、この世に命を宿した時点で使命を果たしている

noteを再開してから過去の記事を読んでくれた友人と話していて、とても大きな気づきがありました。
その記事は、母とわたしに関する3年前の記事。

まずはこちら。自分が子育てするようになって、母との関係性やインナーチャイルドと向き合った話です。

そしてこちら、バトル編。母と人生で初めて言い争った時の話。

友人はこれを読んで、
「お母さんも何かしらをみなみさんに投影させて、自分を内省されてたような出来事だったのかな」とメッセージをくれました。

そう思って会話を振り返ってみると、本当だ…
母がわたしに向かって言った言葉は、母が自分の母親(祖母)に言いたかった言葉なんだ。
「わたし(母)は犠牲になって我慢しているのに、(祖母は)それがわからないのか」


あの時は自分の内側のことしか見えていなかったけど、こういうぶつかり合いが起きる時は、お互いに反映されているものがあるのですね。

子どもは母を甘えさせてくれる存在。あのバトルは、お母さんを甘えさせてあげた事件だったんだね。という友人の言葉を聞いて、

わたしは母をしあわせにするために生まれてきたんだな
という気持ちが湧き上がり、涙が溢れました。


子どもは、生まれてきてくれただけで、母親のお腹の中に来てくれただけで、母親をしあわせにしている。
自分が親の立場で我が子のことを考える時、すんなりとそう思えます。

自分が子どもの立場でも、そうなんだ。
わたしも、生まれてきただけで、母親をしあわせにしている。
生まれてきただけで、一瞬でもこの世に命が宿っただけで、もう使命を果たしている。

どんな環境でも、どんな関係性でも、そうなのだと思います。この世に命が宿ったというだけで、もうすべて果たしている。

「生きているだけで価値がある」という言い回しがありますが、本当の意味でそのことを理解しました。理解というか、実感、体感というか。

自分自身の存在を、まるごと肯定できたような、今までにない感覚を覚えています。


「母をしあわせにするために生まれてきた」というのは、以前から感じていたことではありました。
でも、どこか、しっくりこない重さを感じていました。

母の望むように生きてきたことは、自己犠牲だったのか。だからわたしは◯◯なのか…
そんなふうにジャッジする気持ちがあったから。

今は、過去のどんな出来事にも、ジャッジする感覚は湧いてきません。
母が、わたしの母親になったというだけで、もう完了していたから。そこから何が起きても、すべてお互いに必要があって起きたことだから。

お互いの存在があるだけで、すべてが完璧なのだとわかりました。自分も、母も、祖母も。
その時は苦しかったり、悲しかったり、寂しかったりするけれど、それを感じられたということがすべてを織り成している。

わたしも子どもたちに十分すぎるほどにしあわせにしてもらっています。
こうやって、しあわせは繋がっていくし、少しずつ、世代を超えて癒されていくのだなと感じています。


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