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ご飯を作ろう

父の付き添いで西神戸医療センターの呼吸器内科に行って来た。救急搬送時の検査で撮ったCT画像のCD-Rと紹介状を持って西神中央に行った。西神中央に来たのは何年ぶりだろう。たぶん20年は来てない。

西神戸医療センターに行くのは初めて。設備が整っているだけでなく医者もスタッフも多くて、大病院でありがちな予約していてもひたすら待つということがなく驚くほどスムーズに診察を受けられた。

呼吸器内科の医師は若い男性だった。軽く挨拶をした後、「いただいた画像を拝見したんですが、断言までは出来ませんが診るかぎり恐らく肺がんだと思われます。かなりの大きさで転移もしていますね」とCT画像を見せながら該当箇所の説明をしてくれた。

「ここまで大きくなってしまうと治療として手の施しようは無く、がんかどうかの検査をするには年齢的にもリスクが高いのでオススメできません。検査には1泊2日の入院が必要で胃カメラ等の検査をします。喉にカメラを通して身体に負担をかけて検査したところで、がんかどうかわかっても治療はできませんし、検査を行うことで逆に身体に負担がかかって死期を早めてしまう可能性がある。できることとしては投薬での緩和になるかと思うのですが、検査は受けられたいですか?」

父は何も言わなかった。「私は父の意思を尊重したいと思います」と医師に伝えると、「歳も歳だし、検査はいいや。高齢者だから進行も遅いんでしょう?」と父は言った。「進行に関しては必ずしも高齢者だから遅いという訳ではなくて、ここまで大きくなっているというのは、もうステージが高いんです。そんなに遠く無いという覚悟は必要かと思います…」と医師は言葉を選びながらも率直に説明してくれた。今聞けることは何かを考え、「現在痛みはまだ無さそうなのですが投薬はするんですか?」と尋ねてみた。「もちろん今は投薬しても何も意味がないので無くて大丈夫ですよ」と医師は答えた。

その後に今後考えられる症状などを質問し、胃カメラ等の検査はしないけど、念の為に血液検査と肺のレントゲンを撮り2週間後の診察予約をして病院を後にした。

西神中央駅に向かう道で、父は「よくここに車を止めてお母さんを待ってた。この場所は変わってないんだな」と言った。駅近くの喫茶店に入っても、「お父さんが東京から神戸に来たばっかりの時に、あそこのホテルのバイキングでみんなで集まって食べたな」と話した。ふだんあまり話さない父がよく話している。いろいろ回想しているみたいだった。

朝食を食べてなかった私は、診察の待ちの時間に食べようとヤマザキの北海道チーズ蒸しケーキをカバンに忍ばせていた。だけど結局食べる暇はなくてお腹が空いていたのでスフレホットケーキを食べながら父の回想話を聞いた。


西神中央駅にまだそごうがあった頃に、両親はよく焼き鳥を買って来ていた。ホットケーキを食べ終わると、私は父を喫茶店に待たせてそごう跡地の駅ビルに入った。食料品売り場は変わって無さそうだ。焼き鳥屋はあった。夕食用の焼き鳥を買い、分大の最中と、ドンクで明日のパンを買った。食欲はあるかわからないが、せっかくなら好物の思い出の味を食べるのが今できることだと思って。

帰りは地下鉄とJRを使って帰った。父は電車に乗るのが久しぶりだったからか、また回想しているからか「須磨の海水浴場は今年やってるのか?」と聞いた。「3年前は海水浴禁止だったけど、今年はやってるよ」と教えると、JR神戸線の須磨〜塩屋間の車窓を乗り出すようにしながら眺めていた。

家に着いて両親の昼食を用意したら、どっと疲れが出て部屋で休んだ。昨日の夜はあまり寝れなかった。疲れたから寝ようとベッドに横になって目を閉じると涙が出た。涙は出るけど、どんな感情の涙なのかよくわからなかった。どんな感情の涙かわからないし、疲れてるし、眠いのだけど何か涙が出ていた。

私は一時期父を嫌っていた。私が小学2年の時に軽トラに轢かれた交通事故の保険金を使い込んだ上に借金して、何に使ったのかも謎だった。親戚中にお金を借りてたみたいだし、知らない間に会社辞めて退職金使い果たしてたし、返済が滞ってたからか家裁から電話を受けたこともある。小学生の頃に母が「あの子の事故せいであの人はおかしくなった」と親戚に洩らしていたのを聞いてしまった時は何とも言えない気持ちだった。私が幼稚園児だった頃から母も働いていたが、さらに長時間働いていてお金の心配ばかりしてた。

「愛が大事なんて言うけどね、結婚に1番大事なのはお金なんだからね。お金が無ければ愛だ恋だなんて言える訳がない」と口癖のように何度も母から聞かされて気持ち悪かった。私はお金よりも愛を信じたいと反論すると「お前は世間を知らないからそんなことが言えるんだ」と言われた。

あまりにお金の不安を聞かされるので、お金のことを考えるのが嫌になった。そのせいか精神的な世界に偏った。そんな私を見て「お前は宗教でもやってるのか」とか「本当にお前は金にならん奴だな」と父は言った。すごく嫌だった。私が大事にしたいものを踏みつけられてる気がして。

私は小さな頃から鍵っ子で、家にひとりで、不安になっても助けてくれる人や守ってくれる存在が無いことが当たり前だった。心細かった。だけど母から「寂しかった?」と聞かれても「寂しくないし平気だった」とスンとした顔で答える術を小学1年の頃から身につけていた。子どもなりに、そこで「寂しかった」と言えば母は困るだろうし、「寂しかった」と言ったところで何も変わらないと考えていたのだ。第一本当に寂しくて不安な時にはその感情を受け止めてくれる人は誰も居ないのだ。幼い私は誰にも言わなかったけど、お金じゃなくて思い出がほしかった。

家族に対してそんな複雑な想いのある私が、まさか父のことで泣くとは思わなかった。年齢も年齢だし、今まで病気せずにいたし、そういう時期だなぁとか、長く認知症や病気を患うよりいいかもしれないなとか、病院では思っていたのに。自分が思っていたよりダメージがあったようだ。

身体を休ませながら「まだ痛みがなく、ご飯が食べられるなら、食べたいものを食べさせてあげたい。特別なご馳走や、特別なことはせずに、ふだん食べていたものを食べ、普通の暮らしをするのがきっといい」とぼんやり思っていたら、ふと「私が子どもの頃にほしかった、お金じゃ無くて思い出を、私から父に渡すのか…」と気づいた。「私がほしかったものを、1番理解されなかった相手に渡すなんてなぁ」と複雑な想いが湧き上がり少し寂しくなった。でも、それも受け入れよう。

私がほしかったものをドヤり顔で渡すのではなく、自然に渡していこう。そう考えると、もしかしたら両親がお金のことばかり言ってたのは、子どもの頃にほしかったものを私に手渡したかっただけなのかも知れないなと思った。お金が無くて苦労したり恥ずかしかった想いを私にさせたくなくてお金に執着していたのかも知れない。

夜は父の好物の焼き鳥を食べた。珍しく父もビールを飲んだ。この普通の日常がいつまで続くかわからないけど、いつもと変わらない日常が1日でも長くて続くように、私はただご飯を作ろう。


ビールの泡が消えちゃった

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