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【創作】魔女



一定のリズムで時間をかけて
硯を磨っている。



防音性が高い
今どきのマンションの一室で
ヒーターのおかげで
じんわりと暖かい中、
硯と墨が摩擦する
主張しない控えめな音だけが聞こえてくる。



書道は小さい頃に
母に言われて習い始め、
すぐに褒められる程度になった。




いつも、何をやるにも同じだ。



人並みになるまでは
難なく出来る。
スポーツも勉強も
取り立てて困ったことはない。



それ以上になれない。
際立って出来るものがない。
天才的な才能を発揮するものも、
血湧き肉躍るような
夢中になれるものにも出会えない。



典型的な器用貧乏だ。



硯を磨る自分の手が
規則正しく動くのを
見つめながら思う。



磨り上げたことで生まれる
墨の深い美さえも、
市販の墨液との違いが分からない。



ただ単に先人達が
それを薦めているから。
そんな単純な理由だけで
硯を磨っている。



好んでしているのかと問われれば
疑わしい。
単なる習慣で、惰性だ。



年賀状に墨で書いた宛名の字は
ある程度整ってはいるのだろうが、
際立って美しくも
味のある字でもない。



己の性格を投影したような
丁寧な割に何か足りない字を見つめて
気が滅入る。



このままずっと
こうやって生きていくのだろうか。







「安井くん!」


コーヒーを淹れに
給湯室に足を運ぶと
同期の明るい声に呼び止められた。


「亮介。お前少し痩せた?」


自販機のボタンを選ぶ
同僚の全身が引き締まって感じる。


「ん。大会が近くて
 暇さえあればジムに通ってるからね」



「亮介は本当に好きだな、マラソン。
 フルマラソンなんて
 辛いと思わないの?」



「思うよ。
 足の爪は真っ黒に変色して取れるし
 中盤からはもう逃げたいって毎回思う。
 それなのに
 あの完走したときの高揚感を
 味わいたくてやめられないんだ。


 それはそうと、式の日は
 大丈夫そう?
 もう少し近くなったら
 招待状を送るから」




ココアが注入されたばかりの
紙コップを注意深く引き出しながら
亮介が言う。



結婚が近い亮介は
香りまで甘い。




「もちろん、亮介の式だから
 絶対行くよ。
 藤原・早乙女ペアも来るんでしょう?」




「うん、藤原くんのところも
 そろそろみたい。
 同じ年に結婚になりそうだよ」



友人の結婚ラッシュは
男でも複雑な気分になるな。



コーヒーを淹れると
慣れ親しんだ香りに安心する。




「安井くんは?
 吉澤さんとは考えてないの」



「分からない。
 志穂のことは好きだと思う。
 だけど、亮介が感じたような
 初めて会ったときの衝撃や、
 藤原が言ったような
 胸を搾り取られる感覚は無いよ」




壁に寄りかかって
ココアを飲み始めた亮介は
俺に気遣っているような顔をする。




「何もそういう激しいのだけが
 恋愛じゃないよ。
 安井くんの彼女はさ、
 いろんなタイプの人がいたけど
 吉澤さんは合ってると思う」




女の子たちが
こちらをチラチラ見ながら通りすがるのを
気にせず俺も亮介の
隣に寄りかかってコーヒーをすする。




「そうかな。
 今までいろんな子と付き合ったけど
 正直同じだ。

 派手な子でも静かな子でも
 人間なんて大人になれば
 それほど悪い人もいなくて
 誰だって何処かは魅力的だ。


 どんな子にだって
 良いところはあるし、
 じゃあこの子じゃなきゃ
 ダメなのか、と言われると
 分からない」




隣の同僚は
思案しているようで
ココアを混ぜるように
紙コップを手で揺らし始める。



「安井くんは、本当に
 人間が好きなんだね」



いつだって熱くなることのない
心が冷たい俺に向かって
何かを誇るように亮介は言った。



「この文脈でそのセリフが出る亮介は
 人が良すぎて心配だよ」




その夜は志穂が来て
2人で鍋を作って食べた。



「スマッシュの時の緊張感が
 たまらないの」


小さくて色白で大人しい割に
志穂はテニスに夢中になっている。



「あの試合は惜しかったな。
 あと一歩速ければ負けなかったのに」



社会人になると練習量を確保するのも
勝敗に結びついてくる、なんて話を
悔しそうながら目を輝かせて俺にする。



「志穂は熱中出来るものが
 あって幸せだね」



俺の話に嬉しそうな笑みで返して
「爽くんは?」と聞く。



「俺は何もかも中途半端だよ。
 目立って上手なことも、
 何かを忘れるほど好きなこともない」



具がわずかになった頃
志穂がギブアップしたから
残りをたいらげながら答える。



「爽くんには書道があるじゃない」



すっかり煮込まれたにんじんは
やけどするほど熱い。




「惰性でやっているだけだよ。
 安い墨液と墨の色の違いさえも
 俺には分からない。
 何でもそれとなく出来ても
 全てが中途半端だ。
 そんな自分にウンザリする」



そこまで言ってしまってから
まだかすかに上がる湯気の
向こうの顔を見て気づく。



「ごめん、こんなこと
 男が女の子に言うべきじゃないね」



亮介の幸せそうな顔と
藤原の話で
いろいろと考え過ぎていたようだ。



手を合わせて
ご馳走様をしてから
食後のコーヒーを淹れようと
席を立った俺に
志穂がついてくる。



「あのね、男性だって関係ないよ。
 愚痴を言っていいし
 弱味を見せてもいいよ。
 同じ世代の、単なる同じ人間だもん」



冷蔵庫から
志穂のためのカフェオレの
牛乳を出しながら
柔らかい声を聞いて思う。


俺の周りはお人好しばかりだな。




デザートのアップルパイは
駅前に行列が出来るほどの人気で
2人で並んで手に入れた。



パイ生地がサクサクで
ナイフを入れる時の音が
寒い季節によく馴染む。



「そのシャツ、いい色だね。
 爽くんが選んだの?」



ガラスのデザート皿を
俺に渡しながら志穂が尋ねる。



「そうだよ。俺のお気に入り」



言われて微笑を見せたのは
手渡したアップルパイの
おかげだろうか。




「私ね、肩凝りに気づかないの。
 最初は自分は
 肩が凝らない人なんだって
 思ってた。
 でもね、本当はすごく凝っていて
 他の人にびっくりされるの。
 それで分かったの。
 自分で気づいていないだけなんだ、って」



「やけに話が飛んだね。
 今、肩凝ってるの」




誘惑して来るデザートと
コーヒーを手に、
ローテーブルまで戻ると
志穂はそれには答えずに
俺の横に並んで座った。





「あのね、爽くんは、本当は
 分かってるんだと思うよ。
 墨と墨汁の色の違いも。
 分かってることに気づいてないだけ」




怪訝な顔をして見た俺に
まるで母親がする時の
安心させるような笑顔を向ける。




「そのシャツは爽くんの好きな
 コーヒーのブラックの色。  
 見て。そのコーヒーの色と同じ。
 色の微妙な違いが
 ちゃんと分かって選んでるの」




上品にお姉さん座りをしている
志穂はそう言ってアップルパイを
ひと口食べるなり、
この上なく幸せそうに笑って
高い声でおいしい、と言った。




「爽くんの周りにあるものは
 ちゃんと爽くんの世界観だよ。
 シャツも、スーツも、部屋も。
 コーヒーと墨の、
 中途半端じゃなくて、深い世界」




照れ隠しだろうか。
志穂の身体が俺にくっついている。




「書道も好きなのに
 気づいてないだけ。
 難しいよね、
 自分の気持ちに気づくのって。
 でもほら、あんなに本棚に
 書道の本もたくさんある。

 熱中してることに
 自分で気づいてないの」




アップルパイの端の
硬い部分を口に入れて
志穂はとろけそうな顔で
本棚の方を見つめた。




「恋愛だってそうだよ。
 今まで爽くんが付き合ってきた
 たくさんの女の子の中に
 きっと、とても好きだった子が
 いたはずだよ。


 爽くん自身が気持ちに
 気づかなかっただけで。


 残念だったね」



志穂はペロリと舌を出して
ざまあみろ、とでも言いたげに笑った。




文句のつけどころがない
デザートの効果だろうか。
志穂のことばは俺の中に
すんなり自然に入り込んで
まるでそれが100%
嘘偽りのないことのように
腑に落ちていく。



俺は志穂の
少し癖のある髪を左手で撫でながら
ぬるくなったコーヒーを
飲むとはなしに口に運んだ。




「爽くんね、私のこと
とても好きだと思うよ。
気づいてないだけで」



そうやって上目遣いで
俺を見て来る志穂が
餌をねだる猫のようで
思わず笑ってしまう。



「志穂は魔女だね。
 俺に魔法をかけようとしてる」




「うん、私の魔法は解けないよ、ずっと。
 爽くん、私から
 離れられなくなるよ」



そう言って勝ち誇った顔をした
志穂を引き寄せて
俺は長いキスをした。



この話はこちら↓の2作の
スピンオフです。



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