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スイス生活3ヶ月ざっくり振り返り

イタリアからカチョカバロチーズをひと玉買ったせいもあって、スーツケースがはぜて中身が飛び出しそうだ。成田到着の翌日が妹の誕生日、1月は父の誕生日と誕生日が続くので、スイス土産は誕生日プレゼントに。食いしん坊の妹は、誕生日に何が欲しいかと尋ねると、イタリアのカチョカバロチーズひと玉と答えた。

約3か月のチューリッヒライフ、最終日は曇ることなく晴れてくれた。またこの街に戻るのか、5月の41歳の誕生日に私はどこにいるのか、早めに決めなきゃな、と思いながら最後の街歩きをした。家族にお土産を見て歩いたのだが、入る店入る店で今日は店員さんとよく話した日だった。書を捨てよ街へ出ようとしつこく私に説き続けたダニーロはあるいは正しかったかもしれない。この3か月で、一日にこんなに人と話した日はなかった。「月曜日は私の当番じゃないから月曜日以外にまた来て」と言われて、嬉しくて寂しかった。

23:28、なんとか荷造りも終えて、ダニーロの帰宅を待っている。私の帰国後にスイスは飲食店が全面営業停止になるそうだ。私と入れ替えにダニーロがこの部屋の住人になるのだ。綺麗に片付いた部屋で一人、窓の外の最後のチューリッヒを眺めてもつまらないので、この3か月を振り返ってみようと思う。

10月・物件探しの日々

私が昼過ぎにチューリッヒに到着したのは9月28日だった。ダニーロは少し遅れて空港に迎えに来た。2月上旬にミラノで会って以来だ。彼はミラノで働いていたが辞め、新しい仕事がチューリッヒで見つかり、彼自身も9月1日が初出勤という、チューリッヒ新参者だった。

「本当は今日休みだったんだけどちょっと職場に顔を出しに行ってきた。電車、寝過ごしちゃった」
彼は疲れているようだった。

彼は同郷の女の子とルームシェアをしていた。古い家で鍵の開け閉めもしづらく、ドアは重かった。シャワーは壊れていて、お湯がチョロチョロしか出なかった。「あれ直さないの?大家さんに言ってみたら?」と聞いても、それに慣れてしまっているのか、彼女は全然気にしていないようだった。シャワーの時間が本当に苦痛だった。

キッチンとダイニング、バスルーム、リビングルーム、同居人の女の子の部屋。そして私たちに割り当てられた部屋はダニーロ一人にしても小さな部屋で、ベッドはこれまた小さな二段ベッドだった。私が上で寝ると言っても、ダニーロは一緒に寝ると言ってきかない。深夜くたくたで帰って来るダニーロを少しでもしっかり寝かせるために、私はダニーロが寝付いてしばらくするとそっと二段ベッドの上に移った。このベッドは少し傾いていた。チューリッヒに着いて早々に私はダニーロとうまくいかなくなって、毎日喧嘩ばかりしていた。あまりのストレスでついに視界が斜めに見えるようになってしまったのかと思っていたが、あの家を出てしばらくしてダニーロが「あの家のベッド、水平じゃなかったよね」と言った。

この家の窓は外倒し窓だったが、これも壊れかけていた。換気のために窓を開けるときは完全にぶっ壊してしまわないように細心の注意を払っていた。ある深夜、私がチューリッヒに来て数日後の夜だった。ダニーロが窓をコンコンとノックして開けてと合図した。ダニーロは満面の笑みだった。チューリッヒに私がいるのが嬉しい!という笑顔だった(長年彼と付き合っているので表情で気持ちがわかる)。私も嬉しくなってつい外倒しの窓を思いっきり開けた瞬間、窓枠がはずれてしまったのだ。ダニーロの顔からサッと笑顔が消えた。慌てて家に入って来たダニーロは「壊したら弁償だぞ、気を付けて」と怖い顔をしながら窓枠を直してくれようとしたが苦戦して、指を深く切って血を流した。あれから二ヶ月以上経つが、窓をノックした時のあんなに嬉しそうなダニーロの笑顔はあれ以来一度も見ていない。私たちの関係はここから悪化の一途をたどる。

ダニーロは私に仕事を探せと言いまくり、結婚前で滞在許可証がないので仕事探しはできないと私は主張し、喧嘩が絶えなかったことはこれまで書いてきた記事に詳しいのだが、それに加えてダニーロが結婚手続きの具体的な話を全くしないことに業を煮やして、この頃の私は仕方なく家探しに一生懸命だった。一刻も早くこの家を出たかった。

一人暮らしが長かった自分の城にカップルが転がり込んできて(というか家賃はダニーロがきちんと払ってたけど、もちろん)自分のペースが崩されたストレスで彼女はだんだんと小姑みたいになってゆき、洗面所に落ちた私の髪の毛一本でいちいち文句を言われたし、レストランで働く彼女は15時前後に一度ブレイクタイムで家に戻ってくるのだが、その時家に私がいると(無職だから当然家にいることが多かった)あからさまに嫌そうな顔をした。

私たちはだんだん居心地が悪くなっていた。まずアトピー持ちの私にとっては彼女がヘビースモーカーだったのが、たとえ彼女が窓の外に向かって吸うにしてもきつかったし、彼女のムッとした顔を見るのが嫌で私は二段ベッドの小さな部屋にこもって息をひそめるようになった。家探しにも調べ物にもパソコンを使うからテーブルが具合がよかったのだが、リビングで鉢合わせするのがとにかく嫌で、私は斜めに傾いたベッドでラップトップを広げていた。それに彼女が自身の部屋にしまいきれない服を私たちの部屋にあるクローゼットにもしまっており、時々「ちょっと失礼するわね」といって土足で(!)部屋に入って来て服を取っていくのには発狂しそうだった。ダニーロは寒がりなので、彼女がしょっちゅう煙草を吸うために窓を開けているのが嫌だと言っていたし、朝のシャワーの時間がぶつかってしまうこともストレスだと言っていた(そこはお前が夜シャワー浴びるようにしろよと思ったが)。

チューリッヒでの家探しの大変さはこちらの記事に詳しいのだが、何が大変かって、それはやはり言葉の壁だった。家探しのアプリを使って物件探しをしていたが、言語はほぼドイツ語。英語併記もあるが、少ない。内容をいちいちGoogle翻訳でドイツ語から英語に変換して内容を把握し、好みの物件にどんどんアポをとって内覧に行く。しかもそのアプリ、なぜか文章がコピーできず、その画面のスクショを撮ってGoogle翻訳のアプリの写真インポートで翻訳していた。骨が折れる。一日に一件でも多くの物件を回るために立地と家賃、そして「ルームシェアでないこと」という条件さえ合えばとりあえず連絡していたということもあり、内容をしっかり読まず見落としていて、2ヶ月や3ヶ月だけの限定物件をわざわざ見学しに行ってしまい「え??2ヶ月だけ?」「ディスクリプションに書いたわよね?」なんてことが何度かあった。

物件を見に行って気に入ればアプリケーションフォームをもらってくる。または貸主がPDFで送ってくれたものをプリントアウトする。アプリケーションフォームもドイツ語だ。Google翻訳で訳しながらアプリケーションフォームを埋めて、またPDFにして貸主に送る。プリンタを持っていないし、東京みたいにコンビニなんてないので、プリントアウトやスキャンのためにCopy Quickという文具屋に何度も駆け込んだ。チューリッヒでの物件探しはとても困難ということが、やっていくうちにだんだんと身をもってわかってきた。物件を見に行くと長蛇の列になっていて、たった5分の内覧に40分並んだこともあった。部屋を探している人口に対して空き部屋がなさすぎる。

詐欺に引っかかりそうになったこともあった。いつも使っているアプリではなく、違うアプリも使ってみようと試してみた、その1件目の物件での出来事だった。

物件に興味があると連絡すると、あなたについて詳しく教えてくれと返信が来る。ダニーロのプロフィールで返信すると「あなたはいい人そうだし信頼できそうなので、あなたに決めたいと思う。私は今スペインに住んでいて残念ながら内覧に立ち会うことはできないのだけれど、家賃1ヶ月分をデポジットとして振り込んでくれたら物件の鍵をDHLで送るので、物件を実際見てみて、もし気に入ったら契約を交わしましょう。もし気に入らなければデポジットは全額返金します」というものだった。「お金のやり取りはAirbnb、あなたももちろん知ってるわよね、この会社を通すので安全です」とか言っている。

アプリを変えてから2度立て続けにこれと同じような内容のやり取りをした。2回とも「今スペインに居て、内覧に立ち会えない」という点が一緒だった。名前は1件目がAnnaで2件目がAnnieだった。似すぎていて、しかも立て続けだったので混乱したが、ただの偶然だと思っていた。

ダニーロに「決まりそうだけど、内覧前にデポジット払わないといけない」と相談すると、怪しいから絶対にだめだと言う。この人は自分で家探しをしていないから、苦労がわからないのだと思った。やっと決まりかけているというのに!それに「アプリを変えてみたらこんな感じだから、たぶんこのアプリのシステムなんじゃない?」と言ったが「実際に物件を見る前に、返ってくるかどうかもわからないデポジットは払えない」と頑として聞かないので、断りの連絡を入れると、1件目の人は返信なし。2件目のAnnieは「よくも時間を無駄にしてくれたわね」と今までの柔らかな口調から一転して人格が変わったようだった。これは詐欺だと確信した。

こんなこともあった。
私が「あなたに部屋を譲ります」という連絡を受けたのは、ダニーロが3月末までのサブレットに契約をしたのとほぼ同時だった。

ダニーロの職場からは遠いし、家具が備え付けではないので自分たちで買わなければならないけれど、でも望めば2年だって3年だって住み続けられる我が家がやっと手に入るのだ。私は「本当に嬉しいです。念のため確認したいのですが、部屋を譲ってもらえるということで間違いないですよね?」と返信し、すぐさまダニーロに連絡をした。するとダニーロは「もうサブレットに契約しちゃったし、デポジットも払っちゃったから断って」というのだ。それ、キャンセルできない?リミットがあるより、ずっと住める家の方が絶対いいよ。もう家さがしする必要ないんだし。そう説得したけれど、ダニーロは面倒だという感じだった。

落胆とダニーロへの怒りでぐちゃぐちゃになりながら「申し訳ないけれど、誰か他の候補に譲ってください。あなたからの連絡とほぼ同時に他で契約してしまって」とメッセージを打つが早いか、貸主から電話がかかってきて「キャンセルはいいけど1ヶ月分の家賃は払ってもらうよ」と言うのだ。折よくその時隣にダニーロがいたので電話を代わってもらうと、相手はイタリア語が話せるようだった。貸主は、アプリケーションフォームの下の方に、これは契約書を兼ねていて、キャンセルする場合200CHFを払うよう注意書きがあり、ダニーロのサインがあるので約束通り200CHFは払ってもらうと言う。送ったフォームをよくよく見なおしてみるとたしかに小さなドイツ語の文字でそう書いてある。完全に私のミスだった。ただの申し込み用紙ではなく、契約書も兼ねていたとは…。しかし先方は最初私に200CHFではなく家賃一ヶ月分を払えと言ってきた。私がアジア人の女なのでなめられたのかもしれない。しかし200CHFのことは確かにフォームに書いてありサインもしてしまっているので、払わなければならないだろう。ダニーロはしばらく放っておこうというのでその通りにしておいた。あれから一ヶ月以上経ったが、それから連絡はない。

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前住んでいた家の窓から見えた風景。同居人の女の子はブレイクタイムに帰って来てはこの階段で一服した後、部屋で1時間ほど昼寝するのがルーティンだった。彼女と鉢合わせしないように15時前には用はなくとも家を出るようにしていたが、ここで煙草を吸っている彼女とよく出くわした。

居心地の悪い家、決まらない家探し、仕事を探せなんて言うわりに一向に結婚手続きの話をしないダニーロ、3ヶ月というリミット。やっと来た休日のたびにダニーロが出かけようと言って同居人の女の子も誘うことが私にはたまらなくストレスだった。遊びになんか行きたくなかった。この3ヶ月のプランをきっちり話し合いたかった。私は結婚をしにここに来たはずなのに。結婚に必要な書類も持って来ているのに。ダニーロのコック服にアイロンをかけながら、一体自分が何故チューリッヒにいるのか、わからなかった。同居人の女の子はチューリッヒに4年住んでいるのに友達がいない様子で、休日ごとにチューリッヒの観光スポットに行こうと私たちに声をかけて来た。それは私たちにチューリッヒを紹介したいからというよりも、自分の休日を充実させたいだけのように私は感じていた。私は喉に異物感を感じるようになって、常に呼吸が苦しかった。ストレス性のヒステリー球と呼ばれる症状だった。

11月・イタリア渡航と引越し

スイスよりも、イタリアでの結婚手続きが早いとダニーロが重い腰をあげたので、単身イタリアに渡った話はこちらのシリーズに詳しい。

私が10日間のイタリア滞在からチューリッヒに戻った翌日の11月16日が引越しの日だった。イタリア人女の子とのシェア生活のストレスがいよいよ限界に達したダニーロが、あの家を出られるならどこでもいいと見つけてきたのが、3か月半限定のサブレットだった。ダニーロの同僚が期間限定で違う都市で働いて3月末にチューリッヒに戻って来るらしく、その間だけ貸してくれることになった。ワンルームでシングル向けだがホテルみたいに綺麗だ。

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この頃には同居人の女の子との関係は最悪になっていて、彼女は黙々と引っ越し準備をする私を眺めていたが「ダニーロからなんとなく聞いてたけど、もしかして今日が引っ越しの日なの?」と聞いてきた。

大きなカーペットを丸め、私がスイスに来た翌日にIKEAで買ったハンガーラックは分解し、鍋やフライパン、冷蔵庫の中の食糧も全部、IKEAの青い大きなバッグに詰め込んだ。旧家と新家はバスで5分。私たちは大きな荷物とともに3往復した。最後は大きなアイロン台を抱えてバスに乗った。

ダニーロは荷物だらけの部屋でワインを開け、満面の笑みで「おめでとう」とグラスを傾けてきたが、3月末までの限定の家でそんなに喜べるなんて信じられないと腹が立っていた。私は来月帰国しちゃうし、あなたは激務で、家探しなんかできるわけないのに。たしかにシェア生活はキツかったけれど、もう少し踏ん張ってちゃんとずっと住める家を見つけた方が良かったんじゃないか。

しかし結果的に、1か月住んだこの素敵なフラットは、私の意識に前向きな変化をもたらしてくれたし、修復不可能とも思われたダニーロとの関係にも変化が出てきた。 

私の親友がこんなことを言った。
「意に反していたとしても、ダニーロが言うように履歴書持って人と話すことで、何か新しい風が吹くかもよ」
「行動を変えてみることで、見える景色が変わってくるかもよ」

見える景色が変わる。

まず、これは私の選択ではなかったけれど、彼が新しい住まいを見つけてきたことで私の精神衛生は極めて向上した。新しくて綺麗な住環境。大きな窓を開けるとバルコニー。大きなベッドにダウンライト。テーブルと椅子でいつでも好きな時にパソコン作業ができる。シャワーも水圧が高く、熱いお湯がちゃんと出る。洗濯物はベースメントに4台ずつ設置してある洗濯機と乾燥機を好きな時に好きなだけ使える。旧家では地下にひとつだけの洗濯機の取り合いだったし、乾燥機がなかったので洗濯物干しを同居人が占領してしまうと使い終わるまで待っていなければならなかった。他人の顔色を見なくていい生活。立地も街の中心部でダニーロの職場から5分弱。それにもう、家探しに追われるプレッシャーもなくなった。

衣・食・住というけれど、住が整ったことは大きな変化だった。気持ちが前向きになった。このチューリッヒという素敵な街で私も職を、ひいては生活を手に入れたい、手に入れられる気がしてきた。前の酷い住環境では、それが原因の全てとは言わないけれど、ポジティブな想像をするにはあまりに酷すぎたし、負のループから這い上がれる気が全くしなかった。ただのトラムの顔写真付き定期券の発行ですら、写真を送っても送っても「エラーです」「背景の色が暗すぎます」「画像が重すぎるか、大きすぎます」という手紙を何度も受け取った(いちいち手紙で送って来るバカ丁寧さ!)。何もかもが逆回りしているかのようにうまくいかなかった。スイスから存在自体を拒絶されているような気すらしていた。でも、住まいを変えたことで、私のフィーリングが劇的に良くなった。環境って本当に大事だと実感した。

また、11月30日のダニーロの誕生日を機に、私たちの関係はゆっくりと改善していった。ちょうど誕生日に2連休をもらえたダニーロのために、私は1泊2日のスキーホリデー計画を立てた。ダニーロが以前から山に行きたいと常々言っていたことを覚えていたからだ。チューリッヒから電車で2時間ほどのショートトリップ。事前にチューリッヒ中央駅の旅行カウンターまで出向いて、往復切符と雪山の頂上へのゴンドラチケットを手配した。

30歳の節目だし、この2日間だけは結婚だの滞在許可証だの言うのは一切やめて、楽しく過ごそうと決めた。私はピタッと小言を言わなくなり、出発の時間が来てもダラダラしているダニーロを優しく促し、ホテルに着いても、ゴンドラの最終便の時間を計算しつつ、1時間半、まずは寝かせてあげた。何をするにも超絶マイペースのダニーロに目をつぶるのは、短気で心配性の私には修行みたいにキツかったが、これによってダニーロと私のあいだにあったトゲトゲが少しずつなくなっていくのがわかった。何よりダニーロが本当に嬉しそうだった。雪山すごいね!と興奮している。時間にルーズなのは困ったものだけれど、ダニーロに笑顔が戻ったことが私は嬉しかった。そうだ。一日中家にいる私とちがって、ダニーロは過労の人だったんだ。     

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この歳で28年ぶりのスキーは、これまたただの修行だったけれど、ダニーロがずっこける私を見ながらゲラゲラ笑っているのを見て、良かったと思った。

12月・スイス最後の日々


そして、ダニーロに言われ続けていた履歴書配り。引っ越しが片付いたらすぐに、イタリアのダニーロの実家で作り終えておいた最新の履歴書をダニーロに頼んで20部、彼の職場の事務所で印刷してもらった。

滞在許可証がないってのに突撃するのは勇気がいったし、やはり私の中に腑に落ちないものがあり、バカバカしいという気持ちも邪魔してかなり気が引けたのだが、とにかく行動してみることにした。まずは日本の雑貨や食材を扱う店に。忙しく働く店員をつかまえて立ち話も申し訳なかったけれど、結婚のためにスイスまで来たけれどコロナでダメになったことを話して、またタイミングを見て戻ってきたときの参考に、現在の求人状況やスイスでの就活の仕方などを聞いた。話を聞いてくれた日本人はすごく優しくて、その人は店の前に出ていた求人をたまたま見て応募して採用されたこと、仕事は、コロナでなければ探せばありますよ!と前向きな言葉をかけてくれた。

ほかにも、閉店後のジャパニーズレストランに顔を出したけれど「ごらんのとおり、今はコロナで席数も従業員のシフトもだいぶ減らして営業しているの。だから新規の採用は今はないけれど、我々の同系列の日本雑貨屋さんに履歴書を渡しておく」と言ってくれた。店内はたしかに、その広さのわりに席数が少なかった。

その後も雑貨屋さんなど何件か訪れて話を聞いたけれど、どこもコロナで業務を縮小していて、滞在許可証もなく採用状況を聞く私はバカと顔に書いてあるようなものだった。結局、数件で"就職活動"は終了。12月12日から飲食店は19時までの営業になり、そして22日から1か月、飲食店は営業禁止になった。

11月30日のダニーロの誕生日を機に、怒ることをやめてみたことで、ダニーロの視点でものを見られるようになってきた。ダニーロはダニーロで頑張って生きている。私は主にダニーロの、マイペースで時間にルーズ、人を待たせて何とも感じない無神経さにキレるのだが、待つからイライラするのであって、待たされている間に他の作業をするなど切り替えが上手くなってきた。

それにしても東京で同棲していた頃にこんなにイライラしなかったのは、今みたいに期限がなかったからだと思う。3カ月で私帰国しなきゃならないのに(なんでいつまで経っても結婚手続きの話しないの?)!あと一週間で私帰国するのに(時間を無駄にしないで)!最後の週末なのに(時間を無駄にしないで)!ってな感じだ。自分の年齢も大きく関係している。

何かで、パートナーとのペースが合っているとうまくいくというのを読んだ気がするが、我々はテンポもペースも全く合っていない。私はいつも気忙しくて、彼はこの世に時間という概念がないみたいにのんびりだ(仕事は別として)。

12月は書く仕事を少しだけ始めたのと(まだお小遣い稼ぎにすらなっていないけれど)、ダニーロがスイスの雪山を気に入ったのでもう一度誕生日とは違う山に遊びに行った。そして、10月に家探しで街を駆けずり回っていた時とは全く違う気持ちで街をよく歩いた。一旦帰国して色々立て直せるということも、心に余裕を作った。

今、ドバイで成田行きの飛行機を待ちながらこれを書いている。

帰国予定だった12月19日にチューリッヒ空港へ行くと、コロナ陰性証明書を求められた。ドバイでのトランジットが2日間ある便だったので「24時間以上ドバイに滞在する場合は証明書が必要」と言われた。私は帰国までに何度もエミレーツの規約を読んだが、証明書がいると読解できなかったので、手ぶらで空港に向かって、はじかれてしまった。トランジットが24時間以内のフライトを探してもらうと、3日後ならあるとのことだった。

この日はダニーロが私を空港まで見送るためにわざわざ休みを取ってくれて、さっきまでしんみりモードだったのが、明日からあと丸2日間!しかもちょうどその2日間はダニーロのシフトが休みだったので、私たちはハイファイブをして再び大きなスーツケースとともにチューリッヒまで戻り、私たちの大好きな、ホットワインを出すアイスクリーム屋に向かった。

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