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多和田葉子によせてⅠ『献灯使』

 多和田葉子さんは、ドイツに住んでいる。

 日本の大学を出て、ドイツで就職し、ドイツの大学を出て、今もドイツに住んでいる。作家として、1987年にドイツと日本で同時にデビューした。その後ドイツでもう一つ別の大学も卒業し、2001年、ドイツの永住権を得た。
 それからもずっと、ドイツに住んでいる。

 多和田さんはしかし、まるで日本にいるかのようだ。日本語を駆使した文学を発表し、日本にいなくてもなんら問題の無い形で仕事をしている。日本でも、ドイツでも、物凄い数の賞を受賞している。この世の文学賞はノーベル賞以外総なめなんじゃないかと思う。
 というのはさすがに大げさかもしれないが、村上さんよりノーベル文学賞に近いと目されてもいるらしい。

 こんな風にはじめておきながら、私は多和田さんの作品を、実はそんなには読んでいない。
 しかし新聞で、雑誌で、WEBで「多和田」という名前を目にすると、どのような文章でも食い入るように読んでしまう。

 『献灯使』は、新聞広告で見かけて、どうしても読みたくて読んだ。図書館で借りて、電子書籍も買って、なぜか何度も読み返してしまう。

 「魅了」という言葉が、思い浮かぶ。
 なぜか、魅了されてしまうのだ。その文体や、その文章のうねりのようなものに。気づくと、「多和田さんが足りない」ような気がしてくる。ちょっとヤバイ成分が入っているのではないかと思う。

 「心に残る作品」、というのは、人の数ほどあるはずだ。
 その人それぞれに深く刺さる作品があり、刺さり具合もそれぞれで、刺さりやすい人と刺さりにくい人がいて、刺さったらすぐ抜けることもあるのに刺さったら最後抜けずにそのまま自分の心に同化してしまうような場合もある。

 心に爪痕のような傷がつくとわかっているのに、なぜだかそれが甘美だ。
 まるで官能のようなそれを、より数多くの人に残せる人を「作家」というのだろうなと思う。そしてより多くの人がギリシャ神話のクピドのように楔を打ち込まれ、忘れられなくさせられた「作品」を、「名作」というのだろうと思う。

 多和田さんの文章は、私には刺さりやすい。
 だから注意が必要だ。
 いつも注意深く作品を選んでいる。
 『献灯使』は刺さってしまった。刺さって抜けない。
 この作品は、まごうことなく「名作」だと、私は思っている。

 『献灯使』には作品が5つ、入っている。
 どの作品も、ひとつの「厄災」で繋がっている。

 その「厄災」について、具体的な地名や時事がでてくるわけではないが、当然、私たちは「あの震災」を連想する。

 しかしそれは、「あの震災」でありながら、「あの震災」だけではない、すべての厄災を含んだものだ。ひとつだけ確かに明記されているのは、それが「日本」で起こった、ということだけ。

 それが、とても重要だ。

 日本にいて、日本人が外国を語るように、多和田さんは日本を語る。
 外国にいて、日本人が日本を語るように、日本を語る。

 日本人に絶対的に足りない視点を、彼女は持っている。日本人は昔から、その視線が好きで、焦がれている。
 いっぽうで、外国人には絶対ない視点を、彼女は持っている。それは「漢字かな混じりの言葉をもつ日本の言語」に負うところが大きい。

 外からの視点で世界を広げて見せてくれる人は多い。
 しかし多和田さんはむしろ、日本の言語やその独自性をカプセルに入れてとって置くために外国にいるような気がする。

 彼女の本は、多言語に訳され、それが評価されているが、いったいどうやって訳されているのだろう。外国のかたは、彼女の言葉をどんなふうに受け取っているのだろうか。

 日本人にしかわからない暗号のようなものを、まるで「ダヴィンチ・コード」みたいに埋め込んでいる、多和田作品。ドイツ語で読めばきっとドイツ語のコードが埋め込まれているのだろう。

 ところで欧州に住んでいる人は、例えばなんらかの、壊滅的で致命的で絶望的な厄災が起きた時、人々は地続きの陸路で逃げることを想定している、と思う。

 しかし日本人は違う。
「隔絶」してしまう。
 逃げられない。
 そのことに気がついてしまうと怖いので、気づかないふりをして生きている。

 『献灯使』で、多和田さんはそこをグイグイ突いてくる。
 それがこの作品の中核をなす「怖さ」だ。

 なんらかの出来事が起こり、外来語も車もネットも無くなった鎖国状態の日本。東京の西のほうで、主人公の義郎はひ孫の「無名」と暮らしている。無名は体が不自由で、自分で身体を自在に動かすことができない。
 妻とは別居しており、無名の父親である義郎の孫、飛藻ともは行方不明だ。義郎の娘で飛藻の母・天南夫婦は沖縄に移住して果樹園で働いている。

 無名の身体の不自由さは、例の災厄の影響だと考えられていて、すでに孫の飛藻の代からだいぶおかしなことになっている。逆に、義郎たち老人は100歳を超えてもある程度の若さを保ち、病気もせず、死ねない。

 なぜ鎖国になってしまったのか、その事情は明かされない。突然鎖国が決定したと告げられ、メディアはいっせいにそれを称えた。義郎は文筆家なので反対意見を出したが、却下されたうえ干されてしまう。

 おそらくは「外国から見て危険なエリア」になってしまったがために「鎖国させられている」側面が強いのではないかと思う。つまり隔離だ。それをあえて「鎖国している」という自発にみせているのに、姑息感が漂うのが非常に風刺的だと思う。

 義郎の妻・鞠華は、優秀な子供を選び出して使者として海外に送り出す極秘の民間プロジェクトに参加している。日本を出て外の世界へと旅立つ使者、つまり『献灯使』になるには、様々な条件があるのだが、15歳になった無名は献灯使に選ばれる。

 現在の感覚としては、少なくとも感染症流行前は、留学して世界に散らばることはさして珍しいことではなく、世界中がグローバル化した結果と称して多くの若者が海外へ足を運んでいる。

 しかし、無名の留学は小野妹子や阿倍仲麻呂のような「使命」を帯びたもので、閉塞した世界に灯火をもたらすことを期待されている。それが、単に実験サンプルとして収集されること(献)だったとしても、無名の犠牲は、多くの日本人を救うことになるのだ。しかしその渡航のしかたは、はなはだ「密航」に近い。

 救いようのない世界日本なのだが、無名は明るく未来を志向する。
 閉じた円環のなかで生きるより、この世界の広さを全身全霊で感じたいと願う。
 その願いが叶うか叶わないかは、明かされていない。

 翻って日本は今、開かれた世界だろうか。
 私たちはいつから閉じているのだろうか。

 読後、私の脳内で多和田さんはそう問いかけてきた。
 やはりイケナイ成分が含まれているらしい。

 議論の余地が、私たちに今どれだけ残されているだろうか。
 そもそも議論などできる状態なのだろうか。
 私たちは自由だと信じているが、本当に自由かどうかはわからない。

 2017年発行の『献灯使』は、少なくとも当時の日本の現状に危機感を抱いていた人には、胸に迫る恐怖をもたらしたはずだ。
 そして5年後の今、水際対策と称して外を遮断した体で、私たちは隔絶しかかっているのではないか。日本が思う日本の姿と、外国から見た日本はもはや、違う姿をしているのではないか。

 この作品は、大地震、疫病、戦争ときて、これから貧困に立ち向かわなければならない2022年のいまこそ、読まれるべきものだと思う。

 怖い作品だ。
 怖いけれど、たまらなく魅力的だ。
 


※みらっちの感想文祭り、フライング気味に始まっています。












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