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こたつとみかんと紅白と

 2023年もいよいよ押し詰まってきました。
 ちなみに「押し迫る」と「押し詰まる」はどちらも年末を指す言葉ながら、「押し詰まる」のほうが切迫した感じを醸し出しているのだそうです。

 毎年、大晦日が近づくと思い出す出来事があります。

 私には夫がひとりありまして、しばらく外国に単身赴任していましたが、昨年帰国しました。
 帰ってきてから夫は、まるで人が変わったように、規則正しい生活を心がけ、健康にも気を配り、ゴミ出しや買い物なども積極的にしてくれるようになり、むしろ怠惰に流れていた私と息子の生活を叱咤激励する人になりました。コミュニケーションも円滑になり、家庭内に色々な問題はあるものの、今は非常に快適な「生活」を送っております。

「まるで人が変わったように」というのは比喩ではなく、以前の夫はそんな人ではありませんでした。

 夫とは長い遠距離恋愛の末に結婚しましたが、彼から見たその実態は「恋愛」というより「キープ」。部屋着を買い替えるタイミングを失って面倒くさいから穴があいても着続けるように、他に相手を見つけるのが面倒くさいから変えないというだけの関係、といいましょうか。とにかく仕事優先、自分優先の人でした。

 対する私のほうは、今思えば若かりし頃はかなりの依存体質。本当によく夫のようなタイプの人と結婚したなと思います。占い師さんから占ってもらう機会があると「あなたが結婚して幸せになれた人は他にいた」「ちょっと早まって結婚したようだ。別れなかったのが不思議なほどだ」とよく言われます。別に相性最悪ってわけじゃないし、友達としてはいい関係なのだそうで、そして彼らは最後に口をそろえて言うのです。
 「ああ残念。いい人がいたのにねぇ」。
 とにかく私はベストなパートナーを「逃してしまった」らしいです。
 知らんわそんなの。

 若い時の私は、様々な不安要素や懸念があったにもかかわらず、多くの若い人が良く思うように「結婚したら変わるだろう」「結婚したらうまくいくだろう」と、漠然と思って結婚しました。まあでもそんなのはたいてい、甘い。

 新婚時代、なんとなく一緒にいたのは最初の1週間くらい。朝ご飯は「いらない」と言われ、帰宅は深夜。家にいる時は夫はたいがい寝ていて、そもそも一緒になにかをする、一緒に食べるということがほとんどありませんでした。
 最初は「やった、親と同居でもないし、料理もしなくていいなんて、ラッキー」と思いました。でも次第に、それがとてつもない闇を生み出していく原因になっていったのです。

 そんな状況だったら普通、仕事を探す方向に行くものですが、私は当時、「結婚したら子供」というステレオタイプな考えに縛られていたので、仕事よりまずは子供、と思っていました。今から考えるとメチャクチャ愚かな選択です。あの頃に今のような気持ちでちゃんと仕事を探してたら、それなりにキャリアが積めていたはずだと思うともったいなさすぎます。

 しかしその時の私は頑なに「子ども産まなきゃ」みたいな観念にとらわれていて、不妊治療がしやすいようにと仕事は時間の都合がつきやすいパートやアルバイトを選び、婦人科に通っては「次は旦那さんと来てください」と言われるたびに病院を変える(夫は来るはずないから)という、だんだん、メンタルヤバい人になっていきました。

 当時の夫は子供のことについて話し合うことさえせず、欲しいのか欲しくないのかについても完全黙秘。私がどんな仕事をしようが、産婦人科に通おうが、何をしていようが、全く無関心でした。
 仕事が休みの日には、外出して外食しました。それも、夫の好きな映画を観て、食事をして帰るだけ。私が観たい映画を言っても、なんだかんだ言って結局夫は自分が観たいものしか観ない。というか、映画以外の選択肢がない。今考えるとだいぶ普通じゃない。ほぼDVですよね。でもほら、自分軸で生きていない私は、当時全くことの重大さに気づいていませんでした。夫は、私が週末のデートを楽しんでいるとすら思っていたようです。自分は楽しかったのでしょう。自分は妻に家事を押し付けないいい夫だと思っていたのかもしれません。今となってはわかりませんが。ある意味、自分では選ばないタイプの映画を散々観たのは今になって役には立ってます。笑

 そして私はそのうちに、自分がしたいことさえ分からなくなっていきました。

 仕事が忙しいとかどうとか、そういうことではないなと今振り返ると思います。お互いに子供過ぎたのでしょう。私たちの暮らしは「家庭」ではないし「生活」ではありませんでした。相手に対する敬意もへったくれもない。そりゃあ「離婚しないのが不思議なくらい」という占い師さんたちの言葉ももっともだ、という時期が少なくない時間、ありました。

 結婚何年目のことだったでしょうか、ある年、年末年始が夫の海外出張に当たることになり、まだ若かった私の両親が家に来てくれることになっていました。

 当時、私の両親は、私のことをよっぽど「ひとりぼっちでかわいそう」と思っていたのだと思います。せっかく結婚したのに、自分たちが想像しうるような家庭生活がまるで送れていないようだ、と。特に彼らは「結婚したら子供。子供がいてこその夫婦であり家庭」という世代です。そこからの圧というかプレッシャーも強烈なものがあり、当時の私はその呪縛にも縛られていたのだと思います。

 で、その年の年末、両親が田舎から出てきました。来たのは確か、大晦日の前日。彼らは来るなり、

 「こたつがない」

 と、言い始めました。
 私の家はマンションで、椅子とテーブルの生活です。こたつは夫が嫌いで、置いていませんでした。私もこたつを置く気はさらさらなく、最初は「うん、うちはないんだ。テーブルで鍋でもしよう」と、軽く受け流しました。ところが、両親は執拗に、「年越しにこたつがないなんてありえない」と言い、さらには「これからこたつを買いに行く」と言い出しました。

 はぁ?と、思いました。
 人んちにきて、こたつ買え、ってなんすかそれ。と思いました。思いますよね。結婚して夫と暮らしているうちは子供がいなくたって両親の家とは別の「家」です。にもかかわらず、なんで大型家具を買えと言われなければならないのか。
 ついには「代金は払うから、こたつを買いに行く」と言い出し、「年末年始はこたつでみかんを食べながら紅白を観なければならないのだ」と言い出す始末。
 呆れましたが結局、大晦日にこたつを求めて街に出ることになりました。

 私は、そもそも今(1990年代後半くらいの頃)、こたつなんてどこにでも売っているのか?と疑問でした。たぶん買えないだろうと内心、思いました。
 もし万が一こたつが買えてしまったら、帰国して夫が嫌な顔をするだろうなと思いましたが、そっちのほうは、まあ私が何をしようと無関心なのだから、別にどうってことないだろう、とにかく年末にわざわざ来てくれた両親の心情を慮り、これほどまでに熱望するこたつを買い、両親を満足させて、両親の思い通りにしたほうがいい、こたつは夫が帰るまでに押し入れにでも仕舞っておけばいいだろう――そう、腹をくくったのです。

 それから私と両親は、小売店や無印や大型スーパーなど、めぼしいところを捜し歩きました。でも、こたつはどこにも売っていませんでした。近くに大型家電量販店もなかったですし、私は本当に、早く両親に諦めてもらいたい気持ちでいっぱいでした。

 私が「もう、いいでしょう。無いんだよ」と言っても、両親は納得せず、諦めない。今思えば両親も若かったなと思うのですが、さすがにうんざりしました。自分が欲しいとも思っていないこたつを、なんで大晦日に、足を棒にして探し回っているのか。
 だんだん、怒りを通り越して、悲しくて泣きたくなってしまいました。

 結局、こたつは手に入らず、くたくたに疲れて帰宅し、家で鍋をしました。
「こたつ、売って無いんだねえ、今は」
 と、母ががっかりしたように言いました。
「今日は、お母さんたちわがまま言ってごめんね。でも、私とお父さんは、みらいにちょっとでも家族を味わってほしかったんだよ。なんか、みらい見ていると可哀そうで。結婚したのにぜんぜん、家族とか家庭とかそういう感じじゃなさそうだし。実家で過ごすみたいに、こたつに入ってみかん食べながら紅白観るような”家族の年末”を味わってほしくて――」

 確かに実家では、毎年そんな風に年を越していました。
 だったら私が実家に行けばいいだけじゃないか、私自身がそれをしたいかどうかではなく、父と母が思う「年末年始」や「家族」の概念の押し付けじゃないか、と、当時の私は思っていました。同情されて、みじめでもありました。
 でも、決して愉快なことではなかったけれど、それでも父と母の思いは伝わってきて、両親を責める気持ちにもなれませんでした。

 私の結婚は「家族」「家庭」ではない。

 その時は、それを押し付けられたようで嫌だったけれど、でも結局それが、その後に起こることすべての根っこだったような気がします。子供がいればすなわち家族、という親世代の感覚に全面的に賛同できるわけではありませんでしたが、家族でも家庭でもない、すれ違う夫婦の「家」には、無価値観だけがはびこっていたのは事実でした。そしてそれは、ごく最近まで、私を苦しめ続けました。

 それから三十年近く経ち、今も我が家にはこたつはありませんが、いろんな出来事を経て夫が細胞レベルから別人になっていることを考えると、感慨深いものがあります。夫が変わっただけでなく、私自身も変わっています。相手の価値観にあわせるだけの、他者軸だけがあった依存体質の自分自身とおさらばして、私は今私自身を生きていると思います。今の私だったら、こたつにこだわるあの時の両親に、私は大丈夫だよ、こたつなんかなくたって、両親が来てくれただけで家族を味わえたよ、ありがとうと言えたと思います。

 両親も年を取り、コロナ禍も経て、我が家も息子の学校のことで忙しく、そう簡単に年末年始行き来できる状況ではなくなってしまいました。
 あの大晦日の「こたつ」のことを思い出すと、今もなんだかほろ苦い気持ちになります。両親にとっての家族の象徴であった「こたつ」。
 それがいいとか悪いとかではありませんが、その風景は、今の日本からどんどん、消え去ろうとしているのかもしれません。

 今年の紅白は観る気がしない、という声をちらほらききます。
 かといって、何を観たいというものもないし、動画か配信でもみようかなと言う人も多いそうです。

 そんな中、なんと、夫は紅白を観る気満々だそうです。
「大晦日は紅白だろう」
 このおっさん、本当に違う人なんじゃなかろうかと時々じっと夫を見つめてしまう私です。












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