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怒りを発生させないために(実体験)

怒りがおさまらない時がある。「なんであの人は〇〇なんだ」「あいつは間違っている」「あいつは酷いやつだ!」そんな怒りにとらわれていると、常に交感神経が優位になるので、眠りが浅くなるし、歯の食いし縛りも起こって身体に悪い。自分にもそんな経験がある。

適応障害になりかけの頃、転職先の環境が悪かった。「なんでこいつらは無責任なんだ!」と怒りに震えた。悪口や陰口を言い合うおばさん上司のことを、本当に恨んだ。同じ時期、いつも通り母親が自分の人生の恨み言を長々と電話越しで話してきたが、自分自身も限界だったので、「自分でも何か改善しようとしてみた方がいいんじゃない?」と伝えたところ、「あんたは随分冷たいことを言うんだね!」とキレられた。小学生の頃から、20年以上も母親の愚痴を聞いてご機嫌取りをしてきた。ほとんどが私の父親でもある夫の悪口だった。そんな話、聞きたいわけがない。母親はずっとそんな調子だから、私は幼い時、どんなに死にたい気持ちになっても、ジッと耐えた。生きるために、本を読み、映画をみて、音楽を聴いた。瀬戸内寂聴さんが本で励ましてくれたし、中村うさぎさんは買い物依存症のエッセイで笑わせてくれた。「ショーシャンクの空に」のアンディー・ドゥフレーンに自分を重ね合わせ、希望を忘れなかった。そうやって、模索して、いろんな作品を探し出し、何とか生きてきた。それでも、やっぱり私は愛情不足のまま育ってしまった。

それにも関わらず、「あんた随分冷たいことを言うんだね!」という言葉を聞いた途端に、脳を張り詰めていた糸がプツッとキレた音がしたのを覚えている。その後、すぐに適応障害は悪化し、会社を休職した。これが人生で初めての休職だった。「好き好んで話を聞いていたのは自分の責任でしょ?」と自分を責める声が聞こえた(中村うさぎさんは”ツッコミ小人”と名前を付けていた)。そんな苦行をしていた理由は、生きていることに罪悪感があって、それを消したかったからかもしれない。母親が不幸なのは、自分が生まれたからだと思っていた。実際に、「あんたたちがいるから離婚しなかった」とも言われたことがある。だから、自分がいなければ母親は幸福になったはずで、その理屈からすると、自分は不幸の原因の一つだった。だから、幼い頃から自分が生きていることに罪悪感があった。自分が愚痴を聞いたりすることで、元気になって欲しかったし、それで笑顔になって、自分のことを愛して欲しかった。そうすれば、自分の罪は消えると思っていた。

そんな出来事があってから、数年間は、ずっと悪口を言ってきたおばさん上司や、自分の母親のことが本当に憎かった。寝る前にも、その人たちが自分の悪口を言ってきたり、理不尽に怒ってくるせん妄があったため、睡眠薬を飲まないと全く寝れなくなっていた。だから、頭の中で、何度も何度も、暴力で黙らせた。言葉にはできないような酷い方法で、せん妄を消し去ろうとした。そうでもしないと、睡眠が取れなかった。その時期は、私はずっと怒っていた。自分を馬鹿にした会社の人や、自分をわかってくれない母親。そして、社会や政治。いろんなことに怒っていた。自分は絶対に正しいと思っていた。確かに、悪口を言い合う上司は、精神的に未熟だし、正しくはない。子どもに夫の悪口を聞かせ続ける母親も正しくはない。だけど、その人たちに対して「正しくないからやめろ!」と言ったとしても、きっと変わらない。言い訳をしたり、反発をするだけ。きっと「自分の力でコントロールできない物事」を思い通りにしようとするから怒りが生じるのだ。まさしく人間は、自分の力ではコントロールできない物事の代表格。それでも尚、その相手をコントールしたくなるのは、なぜだろう。私はこう考えた。自分の考えが正しいと思うと、その相手をコントロールしようとすることに正当性が生まれてしまうから、歯止めが効かなくなってしまうのではないだろうか、と。

もし自分の考えを「正しい」と思ったら、それ以外の考えは間違いになる。だから、正してあげよう、そんな気持ちになる。本人にとってはそれが善意。しかし、「正しさ」はその人の認識により異なる。数学的には「1+1=2」は正しい。だけど、それを信じない人に、その正しさを説いても、争いしか生まれない。だから、「わからないから教えて」と頼まれたら「1+1=2だよ」と教えてあげればいいのであって、無理に教えても誰も喜ばない。もし「1+1=11だ!」と信じて疑わない人がいるのであれば、その人にとってはそれが正しい。無理にそういう人を探し出して教える必要もない。そこから先は個人的な認知の問題となる。

例えば、アンパンマンの世界では、アンパンが美味しいものだという共通認識で成り立っている。この作品のメッセージ的にも、アンパンである必要がある。(西欧文化であるパンと、日本文化の小豆の異文化が融合したアンパンが活躍することで、協調と融和の素晴らしさを訴えている。勝手な解釈だけど。)しかし、もし主人公がアンパンではなくて、「椎茸入り肉まんマン」だったらどうだろう。実は、わたしは椎茸が苦手で、風味だけでも嘔吐してしまう。もちろん、椎茸は栄養満点だから、健康のためには食べた方がいい。けど、どうにも匂いや食感が苦手で食べることができない。それなのに、「椎茸入り肉まんマン」が、「栄養満点だから君も食べるべきだよ!」と押し付けてきたらどうだろう。たちまち、吐き出してしまうし、「椎茸入り肉まんマン」のことを正義のヒーローとは思わないだろう。例え、椎茸入り肉まんマンの言うことが正しくてもだ。今書きながら気がついたけど、意外と人間は、「正しいかどうか」ではなくて、「好きか嫌いか」で行動を選んでいることが多いのかもしれない。

だから、どんなに正しくても、それを相手に押し付けることは、相手を傷つけることもあるし、その正しさを相手が受け取るかどうかは、その相手次第。逆の立場を想像してほしい。自分がとっても大事にしているものを、誰かにプレゼントしたとして、目の前で「いらない!」と捨てられたら、悲しいし、怒ってしまうかもしれない。きっと、「正しさ」を誰かに与えようとして、受け取られずに怒りを感じてしまう状況は、これに近いかもしれない。

だから、「怒り」を発生させないようにするためには、その「正しさ」をプレゼントしなければいい。ただそれだけの話。

別に自分の正しさを否定する必要はない。そして、もし仮にその相手が、あなたの判断基準や価値観を希望した時にだけ、そっと優しく教えてあげればいい。(あんまりその機会はないと思うけど)よくアンガーマネジメントが話題になるが、深呼吸を6秒しただけで治る怒りなら、そもそも怒りではない。自分は数年間も治らなかったのだから。怒りはそんなに簡単に鎮められるものではない。だから、そもそも怒りが発生しないような考え方や行動スタイルをとる必要がある。

まとめると、なるべく怒りにとらわれないように生きるためには、「どんなに自分の考えが正しくても、他人にその正しさをプレゼントしない。他人を変えようとせず、かといって、自分の正しさを否定せず、自他の区別をつける。ほっておく。他人の言動に目くじらを立てて騒ぎ立てない方がいい」ということ。これはあくまで私の考え方なので、「全然違う!」と思う方がいてもいいと思います。100人いれば100通りの答えがあるのが人生なんでしょう。




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