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比のゆくえ――憲法記念日によせて

「ロシアのウクライナ侵略によって安全保障環境が変わった」「各国もこぞって軍事費の増額を図っている」などとして、すでに今年度予算で戦後最大を更新したところの防衛費を、5年以内にGDP比2%以上へと倍増する計画が進みつつあります。連日の戦争報道の効果もあるのでしょう。4月22日から24日にかけて日経新聞が実施した世論調査では、GDP比2%以上への増額について賛成が55%、反対が33%となり、賛成が反対を引き離す結果でした(記事)。

 ロシアとウクライナの戦争を呼び水として、こうした軍拡だけでなく、改憲や統制の強化などが一斉に進められようとしている現状があります。自覚的であれ無自覚であれ、多くの人が戦争に絡め取られてしまっており、左派やリベラルはこの状況に対峙する有効な拠点を保持できていません。それではどのように考えを出発させたら良いでしょうか。

 冒頭に述べたように、いま自民党は防衛費の大幅な増額を画策しつつあります。他方でそれに否定的な世論はあまり大きいとは言い難いようです。なるほど昨今のできごとを前にして、日本の安全を守るためにはやむを得ないのだと説明されれば、そうかもしれないと頷く人は少なくないのでしょう。けれどもう一歩踏み込んで考えていくのなら、何かを増額するときは、背後に必ず損なわれるものがあることを見落とすわけにはいきません。

 防衛費を増額するとして、その負担は一体どこから出すことになるのでしょうか。他のどのような予算が削られるのでしょうか。それは年金かもしれません。医療や介護かもしれません。教育、子育て、その他のさまざまな公共サービスも圧迫を受けるでしょう。増税でまかなうとしても実質的には同様の負担が課せられます。すでに経団連や経済同友会は消費税を19%まで引き上げる必要性を指摘してきました。19%というのは、ポケットの一万円札で八千円あまりの買い物しかできなくなるととらえてもあながち間違いといえないし、働く人は一年のうちおよそ二か月がただ働きになるといっても大差がありません。

 こうしたことは生活をいっそう厳しいものへと変えてしまうでしょう。それは言うまでもなく生活をケアし、良くするために使えるはずだった「もの」や「こと」が、より多く軍事へと分配されることの反映です。人々が生産できるものに限りがある以上、多くの兵器を抱えるようになればなるほど、それに応じた「もの」や「こと」が生活の中から削られるのは必然です。このようにして、たとえ武力的な衝突がない場合でも軍拡は生活を損なうことを結果します。すると人々はより長い時間、より劣悪な環境で、急き立てられるようにして働かなければならなくなってしまうでしょう。それを可能にするために労働者の権利も一つ一つ切り崩されていくことになるでしょう。ピカピカな兵器を持つことは、こういったことと引き換えであるわけです。

 もちろん軍拡を推進したい勢力は、諸外国の脅威からわが国を守るために必要な予算なのだ、武力的な衝突を避けるためにこそ不可欠な措置なのだと主張するのに違いありません。けれどもこれにはごまかしがあります。なぜならそれは逆から見れば、諸外国に脅威を与えるものであるからです。脅威が、脅威がと言って各国がこぞって軍拡に走るなら、結局どの国に生きる人々も不利益をこうむることになってしまうでしょう。このことはどの国にいるのかにかかわらないがゆえに、国境のどちら側にも生きている人々全体の側の立場から、軍拡の回避が望まれることになるわけです。

 ところでこのように説明すると、富国強兵を掲げて発展と軍拡の実現を目指した明治期の社会が浮かぶ方もいるかもしれません。しかしながら当時においても軍拡が生活の一部を削ったことには違いがなく、あくまで日本における産業革命や近代化という特殊な時代背景を持つ頃の出来事であるために、発展と軍拡が重なって見えているのにすぎないととらえるのが適切です。

 現在の日本がそれとはほど遠い背景をかかえていることは言うまでもありません。バブルが崩壊して以降、わが国は30年にわたってGDPが低迷してきました。4月15日に総務省が発表した人口推計では、総人口は11年連続で減少となり、直近の減少幅は過去最大となっています。そのような国で中韓やロシアとの対立を煽りながら、他方で「武力的な衝突を避けるために」と二枚舌をつかって軍拡を目指していくことは何を意味しているでしょうか。それが強権的な統制とともにあり、権威と圧力によって人々の不満をおさえつけるものとなるのは想像に難くありません。

 軍拡は双方の国の人々にとって不幸なことですが、より深い苦しみを強いられるのは、次第に豊かになっていくという条件を失ってしまった国の側なのは言うまでもありません。少子高齢化や地方の過疎化、教育、子育ては致命的な問題となっており、日本は土台から崩れつつあります。人口が維持できなくなり、教育、子育ての水準が維持できなくなったということは、社会の維持ができなくなりつつあるということです。そうしたことにこそ迅速に予算を投じなければならないのにもかかわらず、防衛費を上げるなどというのはまったく逆の方向です。それは加速的に転落しつつある日本社会にとどめの一撃を加えるものとなってしまうでしょう。


 自民党政権はここぞとばかりに軍拡へ、改憲へ、そしてより強権的な生活の支配へと突き進みつつあります。それを実現するためにこれまで以上にマスコミ、教育、学問などに手を加えようとするはずです。世論も引っ張られていくでしょう。ロシア、ウクライナの戦争はすでにその一環として利用されています。例えば次の声明はどうでしょうか。

「ロシアのウクライナ侵略は、世界の現実を日本に突きつけた。国連は常任理事国ロシアによる数々の国際法違反と蛮行に無力だった。一方でウクライナの徹底抗戦は、自国の主権と独立は国民自らの手で守り抜くものであり、世界はそうした国にこそ支援を惜しまないことを教えている」(出典:日本会議『ウクライナ危機を教訓に防衛力強化と憲法改正を進めよう』

 これは5月3日の憲法記念日を前に公表された日本会議の声明の冒頭です。「攻められたらどうする」「備えなければならない」「国への協力を惜しんではならない」――そういった論理に持ち込もうとしていることがうかがえます。

 侵略や残虐行為が許しがたいのは当然です。けれどもそのことをもって、平和を望む人たちのアキレス腱が狙われている構図を察知しなければなりません。ウクライナでの悲惨な現実の報道の裏には「侵略されたらこうなるのだ」「だから……」という言葉がへばりついています。もちろん多くのジャーナリストは、平和を希求し、残虐な行為に憤る良心的な人たちなのに違いありません。しかし情報は様々な意図のもとに利用されてしまうため、戦争の残忍さや悲惨さを見せつける事を通じて危機感をあおり、新たな憎しみを掻き立てようとする動きには注意する必要があります。残忍さや悲惨さを受け止める土壌が十分になければ、写真や映像を広めること自体もそうした効果を持ってしまうでしょう。

 直ちに行われたロシア語やロシア文化の排斥も等閑視するわけにはいきません。外務省は3月31日、ウクライナの地名の呼称について、ロシア語読みからウクライナ語読みへの変更をしました。けれども当のウクライナではバイリンガルも多く、日常の言葉としてロシア語とウクライナ語のそれぞれを使う人が五分五分であることは、FOM-Ukraine(2009), Research&Branding Group(2010), Razumkov Centre(2011)など複数の世論調査で示されていることです。外務省はさらに4月8日、日本に駐在するロシアの外交官8人の追放を表明するに至りました。ロシアはこれに応じる措置として4月27日、ロシアに駐在する日本の外交官8人の追放を表明しています(記事)。ロシアに対するウクライナ、あるいはNATOなど西側諸国に対するロシア・中国など東側諸国――そのように国と国、東西への囲い込みを日々、刷り込んで、分断と切り崩しを図ろうとする動きが浮かび上がります。

 4月11日に発表した先の記事(『ここから見える世界は――国家間の軍事的対立を乗り越えていく社会観のために』)は、やや難解と評価されつつも、ありがたいことに多くの人に読んでもらえました。大学の講義で扱っていただけたことや、労働組合の方々の目にとまったことも嬉しく思います。しかし他方で「かなりの未来を射程にした話で、即効性のある提言ではない」といった受け止め方もいくらか見られました。けれどもこれは、ただちに行われる分断と切り崩しに対して、どのような立場から対決しうるのかということをめぐって、喫緊の問題として書かれているものです。

 未来はそれ自体として存在するものではなく、ただ、今を生きるその時その時の瞬間からどのように出発するかということの積み重ねのみが、どのような未来に行きつくのかを決します。そしてぼくたちはそもそも、それぞれのいる場所からしか出発することはできません。

 言論界ではロシアはどうすべきだ、ウクライナはどうすべきだ、国際社会はどうすべきだといった議論が活発で、それらが「即効性のある提言」とみなされがちであるようです。しかしながらその提言は、誰がいかなる立場から行っているのでしょう。そこにはスポーツを観戦するような立場から、あるいは軍師の立場から物事を考えている面はないでしょうか。少し前にはウクライナは抗戦すべきなのか降伏すべきなのかといった議論を行った人たちもいたものの、戦争はいわば権力という猛獣の衝突です。熊が虎におどりかかったのを前にして、「どうするべきだ」と言ったところで虎はただ自らの身を守ろうとして動くでしょう。もともと国はそういった議論が通用するような仕組みで動いてはいません。(そして国が身を守るということは人々の命や生活を守ることと合致するのではなく、多くの場合において命や生活を犠牲にしてでも体制を守ることであるというのは歴史が示すところです)

 このような議論に熱心な人たちは、戦争を自分から切り離された遠いところの問題として考えているようですが、実際はそうではありません。今のロシアやウクライナは人々の生活が抱えた矛盾が最も悲劇的な形であらわれた場所となってしまっているものの、それはぼくたちの生きる日本とも全くの地続きです。

 ぼくたちの生活は常にせめぎあいにさらされているのです。軍備を増強し、支配を強化し、自由や民主主義を限定的なものへ変えていこうとする動きはロシアでもウクライナでも、また日本でもあるわけです。人々を分断しようとする動きも普遍的なものです。それに押し流されてしまい、人々が自らに突き付けられる理不尽な現実に力を合わせて対峙することができなくなっていった時、戦争にむけて動員される大きな条件が満たされます。今のロシアやウクライナの人々がおかれた状況は、それぞれの地で同様のことを阻止できなかった結果にほかなりません。先の記事では、平和を望む素朴な生活者が戦争に巻き込まれるのはなぜなのかという問いをもとに、人が努力して生み出したものが自らのもとに刃となって戻ってくる仕組みが存在することを論じましたが、刃の仕組みの中にあるというのは、生活がそうしたせめぎあいにおかれているということでもあるわけです。


 ロシアとウクライナの戦争をめぐって、日本ではほとんど報じられなかった「たたかい」がありました。ギリシャの労働組合が「私たちは兵器がわが国の領土を通過することに加担しない」(声明:Αρνούνται να «βάλουν πλάτη» στη μεταφορά ΝΑΤΟικών αρμάτων)と宣言して線路に立ちふさがり、少なくとも二週間、ウクライナに向かうNATOの戦車の輸送を止めたのです。他方でベラルーシでは、鉄道労働者が信号制御システムを破壊して、ロシア側の軍事物資の輸送を阻止しました(記事:The Belarusian railway workers who helped thwart Russia’s attack on Kyiv)。東西の双方から、戦争の激化を止めようとする努力があったのです。

 結局、ギリシャの側は、最後は通り過ぎる戦車に赤いペイントを投げつけて抗議する形となり、ベラルーシを経由した軍事物資も徐行運転で進みました。具体的に行動した人たちの数は限られており、これらの行動が戦況に大きな影響を与えたととらえるのは妥当ではないかもしれません。けれども人々の力とは何なのか、人々が自らの生存を自らの意志とかけ離れたものにゆだねないとはどのような態度なのかということに考えを及ぼすとき、社会を動かす根源はここにこそあるとはいえないでしょうか。イタリアでは空港や鉄道の労働者が軍事物資の積み込みを拒否し、ベルリンでも武器輸送に反対するデモが起こりました。こうした行動、こうした力、そしてその背後に何十倍、何百倍と存在する潜在的な「戦争は嫌だ」「なぜ社会はこうなってしまうのか」という実感や悩み、そして人々の中に存在する、まだ形にならない多くの想い――それを形にすることが深層の課題であり、むしろロシア黒海艦隊の旗艦が沈没したというようなしきりに報じられた「戦果」こそ表層のことなのです。

 古くから繰り返されてきた「攻められたらどうする」といった主張は、 物事の原因を無視し、特定の結果や局面だけを取り上げた詭弁のごときものにすぎません。「攻められたら」の前には常に、軍縮や戦争回避の試みがあります。そしてここでも、その試みは単なる政府機関や外交官の努力ではなく、背後に間接的または直接的に存在する、「我々は同じ人間だ」「理不尽な争いはごめんだ」という人々の想いと行動に支えられたものです。国際的な取り決めによって停戦や軍縮を実現するというのもやはり表層のことであり、深層に何が働いているのかといえば、そこにあるのは人々からの圧力にほかなりません。軍拡は人々からより大きな収奪をもたらします。そして軍事力は生活に突きつけられた刃にほかなりません。そしてそうであるからこそ、国境を越えて軍縮を求めるという人々の立場が成立するわけです。

 もともと戦車であれミサイルであれ、あらゆる生産物は人々の努力の結晶です。その意味で、兵器はいびつな形になってしまった人々の財産と言うことができます。その財産は本来ならば、人々の生活を破壊するものの形をとるのではなく、人々の生活を豊かにする形をとるべきものでした。努力の結果が人々の手を離れて国なるものに管理され、やがて人々に牙を剥く。人々の努力が、生活を豊かにするものと生活を破壊するものに分かれてしまう、その比率は何によって決まるのか。イギリスの労働組合UNISONの声明(UNISON National Executive Council statement on Ukraine / 原文和訳)を紹介した際、エドワード氏が「労働組合がなぜ平和運動を行うのかの理由がこの声明の中に全て詰まっている。労働組合は労働問題だけやってればいいと思っている人たちに是非読んでほしい」と書いていたのは、このことを鋭く突いています。

 おりしも今日は憲法記念日です。日本国憲法にはこの社会のせめぎあいの構図が冷徹につかみとられた一文が掲げられています。

「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」

 比のゆくえはひとえにここにかかっているといえるでしょう。思想的に篭絡され、経済的にがんじがらめにされ、人権の水準が切り下げられていくことを容認してしまえば、それだけ戦争を止める力も損なわれることを結果します。人々が自らの生活をどれだけ権力にゆだねるのかということが、戦争を止められたり止められなくなることと切り離せない関係を持っています。

 ロシアとウクライナの戦争によって、世界は不穏な渦に飲まれつつあります。日本では改憲へ、軍国化へという怒涛の流れが始まりつつあります。そうしたなかで、苦境に置かれた人々の共通性に目を向けること、そして国や権力の側ではなく人々の側に立つことは、翻弄されずに事態と向き合い、打開するための出発点をなすはずです。

2022.05.03 三春充希