見出し画像

ずっと忘れてた感覚。


温泉宿のアルバイトをしているけど、私はまだ入ったばかりのペーペーなので毎日掃除をしている。

拭き掃除、掃き掃除、掃除機、トイレ掃除。

働き出して3日目の間もない頃、客室3部屋の掃除を頼まれた。

その時は何故か妙に張り切っていかに効率よく作業をするかで頭がいっぱいだった。

早く掃除を終えて、女将さんに認めてもらおうという意気込みみたいなものも多少あった気がする。

一歩でも無駄な場所を歩かないよう効率よく動いて、コードを引っ張る時まごつかないよう掃除機の配置や向きまで意識をしてた。

ササッ、ドタドタ、ウィーン、ドタドタ、ジャーッ、キュッキュッ

ササッ、ドタドタ、ウィーン、ドタドタ、ジャーッ、キュッキュッ

ササッ、ドタドタ、ウィーン、ドタドタ、ジャーッ、キュッキュッ

早く、早く、いかに効率よく動けるかだ。
あっ今無駄な動きだったな、クソっ。

そんな風にドタバタと忙しく掃除をしていて1時間くらい経過した時。

掃除機を終えて今まさにテーブルを布巾で拭こうとするその瞬間だった。

あれ………

私はなんでこんなに急いでいるんだろう…

早く終えたいから?
早く終えても部屋でゴロゴロするだけなのに?
むしろ暇を持て余してて暇で悩むほどなのに?

布巾を持つ手を見つめたままフリーズした。

この、違和感の正体は…一体

その疑問のすぐ後、
コンマ1秒もたたないうちに、身体の五感がありありと蘇ってきた。

右手の中に布巾の冷たを感じた

いつの間にかぶつけていたらしい、脛の痛みがじわじわと広がって来た

誰もいないフロアの静けさが、奇妙な感覚で入ってきた。

これが〈今〉ここという体験だった。

いかに早く終わらせるか効率を上げることばかり考えていた時、頭は未来にトリップしていた、私は今にいるようで〈今〉にはいなかった。

それは私にとっては大きな気づきだった。

ハッとした。
そうか、これまでの人生ずっと〈今〉を蔑ろにしていたんだ。
そんな風に思った。

仕事が出来るという条件には、なんの疑いもなく効率的であることが入っていると思っていた。

たしかに、早いことは価値である。
それはそれで素晴らしいこと。


だけど、効率的、合理的であることは優秀である為の必須条件だとなんの疑問もなく信じ込んでいた自分に気が付けたことが嬉しかった。

それなりに忙しい社会人生活を続けてきたせいかもしれない。
いかに効率よく数字を上げるか、生産的であるかを考える職種に就いていたせいかもしれない。

だけど、この刷り込みはもっと前からだった。

中高の部活でだって、移動はすべて走らなければならなかった。

もう随分と前から「時間を無駄にしてはいけない」という言葉だけが先行した価値観を埋め込んで生きてきた。

その無駄って本当に無駄なのか?
何が本当で何が嘘なんだろう?

そうして無意識に自分の奥深くに入っていった。 ここに大事なもののヒントがあると直感が言っていた。

ずっと前に忘れてしまった、大事な何かを取り戻せそうな気がした。

私が〈今〉から離れてしまったのはいつからだろう。

幼稚園の頃まで、気がついたら絵を描いていて、気がついたら周りに人が集まってた。

不安なんて微塵も感じず、ただ夢中で世界を楽しんでいた。
虫たちの動きに目が離せなかった、クレヨンの鮮やかさに魅了された、泥団子をつくりながら手の平に広がる心地よさだけを感じていた。

あの時はただ〈今〉だけを生きていて、それが連続していた感覚だった。

思い返せば思慮深くなってから不安がつきまとうようになった。

私の場合、そうなるのが他の人よりも早かった気がする。
小学校低学年くらいから記憶が鮮明にあって、あの頃から自分が他の人と違うことや笑われることを気にしだした。

それから周囲の目を基準に生きる人生が始まった。

空気のように目立たず生きることだけが私の目標となり選択基準も好きなものではなくリスクを考えて選ぶようになった。

本当は美術部に入りたかった。
でも、それではこのクセの強い自分の要素が濃くなって社会に適合できないのではないかと不安だった。

社会に出ても恥ずかしくないように、少しでもまともな人間になれそうな、集団行動を求められる社会性が身につくであろうマーチングバンド部を選んだ。

とにかく自分のクセの強さをいかにして薄めるかばかり考えていた。

でも不安から選んだ行動で満たされたことは一度もなかった。
本当はずっと”好き”から選択したかった。

“好き”を選べなくなった根本的な原因、
それは〈今〉ここ、から外れていたからだった。


〈今〉ここから外れた瞬間、未来や過去に縛られる。
未来や過去に囚われると、不安が押し寄せてくる。

私の場合はこのままでは社会で浮いてしまうと、いう〈未来〉を憂いた上での不安だった。
もし社会で浮いてしまったら、仕事に就けなくなったらどうしよう…。

これは誰でもあることだと思う。

不安が押し寄せた時、人は必ず〈今〉にいない。
そんな時は〈未来〉か〈過去〉を彷徨っている。

失くしてはならない大事なものは実はすべて〈今〉というこの瞬間にあるのに。

実際、そうはいっても未来を考えずに生きるなんてこと出来る訳ないと思う人も多いと思う。

だけど、不安から選んでも不安の波が次々と押し寄せてくるだけで、それにはキリがない。

〈未来〉という不確定要素しかないものには、不安か希望かという極端な二択になってしまう。
だけど〈今〉は確かな実態と共にここにある、だからよく考えてみれば安心しか感じ得ない。

人間は生存確率を上げる為の本能が勝手に働いて、リスクヘッジをする為にネガティブな情報へフォーカスしてしまうらしい。

だから〈未来〉を考えた時、高確率で不安の波にさらわれてしまうのだと思う。

だけど〈今〉この瞬間を味わうと自ずと安心という波にさらわれる。

試しに今、やってみてほしい。

あなたの〈今〉はどんな感じだろう?

電車の中?車の中?仕事の休憩中?お休みの日で家にいる?布団の中?

〈今〉何をしながら読んでる?
珈琲を飲んでる?お菓子を食べてる?寝転んでる?お子さんを寝かしつけてる?

それぞれの〈今〉があるだろうけど、そこに危険はある?
まさか危険に晒されてる時にこれを読んでいるなんて人はいないと思う。

布団の中はあったかいだろうし、
珈琲は美味しいだろう、
電車はしんどいかもしれないけど、快適な温度で過ごせているかもしれない。

たとえ快適ではないとしても〈今〉に立ち返っ
て、しっかり味わう。

そしたら、この命は安心に包まれる。

〈今〉ここ。
3分でいい、深呼吸をしてただ味わう。
自分の中にシンとした沈黙がやってくる。

例えば珈琲や紅茶を飲みながらやってみると、その心地よい香りで身体が満たされる。

次にまた、強い不安を感じた時は騙されたと思って〈今〉に立ち返ってみてほしい。

そしたら勝手に安心する。
不安も期待もない、ゼロの地点に勝手に戻る。
悩む前にゼロの地点に戻ってから、考え直すとそこには安心がある、〈今〉ここからはじめられる。

あれ?なんであんなに悩んでたっけ?
とケロッとしている自分に気づくと思う。
そこまでケロッとできなくても少しは気持ちが落ち着くと思う、そして静かな自分になる。

まぁ、とはいったものの、
私もずっと〈今〉にいられるわけではない。

ちゃんと不安の波に流されるし、未来や過去へ思考のトリップが止まらない時もある。

未来には不安もあれば希望もあって、未来の妄想が楽しすぎて今ここを蔑ろにしてることも多い。

ただ、それでもいい。
完璧に悟り人のようになれるわけもないし、なりたくもないし。

そんなこと言ってられないくらい忙しかったり、そんな暇があるなら寝てたいわ!って人も多いと思う。

グルグルと効率的に経済をまわすことでしか成り立たない今の社会だから、そうなってしまうのは仕方のないこと。

ただ、スピードが早すぎて刺激が多すぎて、無意識に疲れている人が多いように思う。

なんか閉塞感があったり、無性に泣きたくなる瞬間があったり、無気力で何も感じない、なんて人もいるかもしれない。
自分は気がついていないだけで、疲れてる人が多い。

不安の波に飲まれたとき、冷静になれる方法があることを知っているだけでいい。

いつでも安心に立ち返ることが出来る自分であるということ、それを知っているだけでいい。

これは気休めでただの御守りみたいなものだけど、ないよりはあるほうがいい。

これを読む人に持って帰ってほしい、安心の御守り、それは〈今〉ここ。