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無理ゲーをさせられないための

 「寄り目ができない」
 なんていうことに気づいたのは,人生40年も生きてからのことであった。寄り目ってあれです,左右の眼球を目の内側へ同時に寄せるやつ。できる人からしたら「何でできないの!?ふざけてるの?」とか言われかねないような簡単なこと(みたい)だけど,いやマジでできないの。どうしたらいいのか皆目分かんない。てゆーか,どこに力入れたらいいの!!?

 寄り目をしようとすると片一方の眼球が全くあらぬ方へ動いていってしまう私の様子を見て,家族は驚愕していた。「ほらお母さん,こうするんだよ!こっちの目もちゃんと見ないとダメだよ。」とかムスメが焦ってスパルタしてくるんだけど,言われてできるようだったら最初からしてるっていうの。大体寄り目をしようとガイドしている自分の手の指は,顔の中央から大幅にずれている。「お母さん,そこ真ん中じゃないよ。」と言われながら指を中央に移動させられると,強烈な脳内違和感に悶絶。「そこは!真ん中ぢゃなくて左です!!」って脳が叫んでるーーー。試しに目を閉じて額の真ん中(と自分が思う場所)に指を持っていって鏡で確認すると,そこは真ん中じゃなくて右に寄っていた。

 あぁ。
 わたし,寄り目だなんて簡単なこともできないうえに,色んなことがいがんでるんだわ。

 なんだか非常にがっかりしたものだが,問題は寄り目「芸」ができないっていうことなんかではない。寄り目ができないということは両目がチームワークでスムーズに運動できていないということであり,それは「両目でものをみる(両眼視)」機能に問題を抱えている,ということを意味するのだ。人間は両目で見ることによって,ものとものとの距離や奥行,要するに遠近感を把握する「立体視」をしている。それゆえ両眼視が機能していないと,「立体視」が困難だったり,できなかったりするということになる。

 心当たりがありすぎである。

 例えば私はこのnoteでも何度も書いているが,車の運転が下手くそであり,ニガテだし好きじゃない。とりわけ車庫入れは大嫌いで,毎回ビクビクしている。そりゃあ遠近感をはかりにくい「見る力」弱者の私にとっては,車なんていうでっかいものを狭い空間にぴたっと入れるなんて,能力をはるかに超えた行為なんだろう。もちろん車の運転や車庫入れが下手であるっていうのは,両眼視機能の弱さにだけ原因があるのではなく,もっと様々な要因が複雑に絡まって起こっている現象なんだとは思う。でも劣等感を持っていた車の運転のニガテさは,そもそも私の身体機能・能力的な制約を受けてのことなんだと分かると,まぁ落胆しないといったら嘘にはなるけれども,どちらかというとホッとした。というのも,車庫入れは私にとってそもそも無理ゲー(※)だったってことだし,であるとするならば「その中で私,よく頑張ってるよね」ってなんなら自分を労う気持ちさえ湧いてくるからだ。

※無理ゲー(むりげー)とは、その苛酷な条件、設定の為クリアが非常に困難なゲームに対して言われる言葉である。稀に、ゲーム以外でも同じ意味で使用される場合がある。(ニコニコ大百科より)

 そしてもう一つ重要なことは,もし車の運転のニガテさが両眼視機能の弱さからくるのであるならば,その力を補ったり訓練することで改善が見込めるかもしれない,という可能性である。もちろん原因が分かっても(現代医療では)どうすることもできない,ということの方が多かったりもするわけで,実際私も視機能検査を受けに行ったのだが,訓練に関しては,

 「・・・(年齢的に)伸びしろが(ない)・・・」
 と言われてしまった。ちーん。

 まぁ今から目の筋肉鍛えても加齢には抗えんわなぁ,っていうのは理解も納得もできるし,受け入れている。車の運転がうまくなってブイブイいわす姿を想像してニマニマしなくもなかったが,仕方あるまい。だけどもしこれが,伸びしろばっかりの子どもだったとしたら。固有の身体を生きている,という意味において制約がなくなるわけではなく,あらゆる可能性に開かれているんだとは言わない。でも,もしかしたらどれだけ頑張ってもできなかったことが,自分の弱いところがどこにあるか知り,そこを補ったり工夫することでできるようになるかもしれない。そしてたとえ「できた!」までいかなくても,「できるまで繰り返す」とか,「恐がるな!根性出せ!」なんていう検討違いな方向で闇雲な努力を強いられずにすむことは確実である。

 両眼視に難ありの私に,いくら「よく見て(車を)入れろ」「とにかくたくさん練習して身体で覚えろ。」なんて言っても車庫入れは上達しない。だってそもそも「見てても,見えない」んだもの!今までで一番よかったアドバイスは,「入れたい場所の,2台先の車の中央と自分の運転席の位置を合わせてから(ハンドルを前部きって)バックしなさい。」という(言語による)法則だった。遠近感が狂っていても,自分の身体を横にとめてある車の真ん中に持っていくのは2次元ベースの操作でできるんだろうな。もちろんスペースがナナメなんていうイジワル極まりない駐車場やら,車と車の間にどでかい柱があったりすることなんかもあって,応用がきかない単純法則では四苦八苦するハメにはなるのだが,それでも9割がたうまくいく法則を手にしている安心感といったらない。残り1割の博打感は恐怖であるのだが,alwaysイチかバチかよりよっぽどもいい。ていうかもしそうだったら,私は車の運転をしていないんじゃないだろーか。コワすぎて。

 結局ね。
 したいこと,しなければならないことがあったとして,それをするのに適切な方法って人の身体によって違うのだ。両眼視機能凹(一方言語理解凸)の私は,言語による法則教示で車庫入れを(たとえかろうじてであっても)クリアできる。それなのにいつまでも「ひたすら反復練習」という無理ゲーをさせられて失敗経験ばっかり積み上げさせられたら,「車に乗ってでかけたい」という意思をくじかれ,自由と選択肢を奪われることになりかねない。

 そしてね,私は思うわけですよ。
 発達障害といわれる方々が置かれている状況っていうのが,まさにこの「四六時中,無理ゲー」なんじゃないかと。

 そもそも眼球をスムーズに動かせないから黒板に書いてあることをノートに書きうつすことができないっていうのに,授業で板書を強要されるとか。
 雑音を背景に沈みこませることができないからざわざわした場所では勉強や仕事ができないっていうのに,何の配慮もないとか,遮音グッズの持ち込みを許可されないとか。
 味やにおいや触感を他人の何十倍も感じるから「食べられません」って言ってるのに,「感謝して残さず食べろ。」とか。

 もう本当にこんなことありすぎて,「私の無理ゲー体験」を募集したら,何百,何千と集まるだろうと思う。でもきっと,「これ,無理ゲーだわ・・」って気づいていればまだいい方で,無理ゲーであることに気づいていないってことの方が断然多いのではないだろうか。だって「みんな同じ。みんな出来て当然」→「私だけデキナイのはおかしい。努力や能力が足りない。」って思わされ続けてきたのだから。

 でも違うんだよ。
 みんな違うの!

 「みんな」にとってその設定や環境が適切であっても,「わたし」にとってはまるで適さないことだってある。あるいは目標に到達するための方法が「みんな」と違っていて,「わたし」には合ってない場合だってある。そして「わたし」と「みんな」は常に対立したカテゴリーなんかじゃなくって,あるシチュエーションにおいては「わたし」が「みんな」の中に入っている時もあるし,別のシチュエーションでは「みんな」から「わたし」がはじきだされる時もある。味覚はおそらく「みんな」と概ね一緒でも,「見る」機能においては「みんな」とはちょっと異なる「わたし」,のように。

 みんなちょっとずつ違う身体を携えて生きているのだから,そんなこと当たり前なんだ。それなのにみんな同じ目標に向かって,同じ方法でっておかしいでしょ。どう考えても。たまたま「みんな」にカテゴライズされることの少ない身体を携えている人にとっては無理ゲーの連続になるし,その中で「私だけデキナイのは,努力や能力が足りないからだ・・」と自信喪失と自己否定を強いられるっていうのは,本当のところ人権問題なわけだし,教育や社会全体が変わっていかなければならないんだと思う。

 でも,まだまだ変化の兆しも見えないような中では自衛もしていかなくちゃならない。そんなの本当はおかしいけれど,無理ゲーをさせられないためにできること。

 それは,「無理ゲー」だってまず気づくこと。そしてそれに気づくためには,自分自身の身体に自覚的である必要があると思うのだ。自分の身体の特性を知り,得意・不得意を見極め,自分に合った方法を選択できる,ということ。

 子どもの「学習支援」もおとなの「当事者研究」もそのためにあると思うし,それは障害をもつ当事者だけに必要なのではなくて,時には「みんな」からはじかれることだってある全ての人にとって必要なのだと私は考えている。

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