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考察:日常で成し得る批評とは?

はじめに

こんにちは。上手に文を書けるようになりたい人、みそいちです。
今回はこれまで探ってきた「批評とは何か?」に対し、一定の結論を出すための記事です。(特に前までの記事を読む必要はありません。読むと背景を理解し易くなるとは思います。)

自分の思い・世界の批評論を踏まえ、批評を楽しんで実践していくために必要なことを、改めて整理してみます。


(今日の一曲)

これまでの振り返り

noteで何をするかを考えた際に、私は「批評 = 対象の価値を明確な言葉にする作業」をしてみようと思いました。そこには、私の文章を書く楽しさの原体験である、「自分の感じた衝動を言葉によって構築し直し、その感動を深く味わい直すこと」を追体験しようとする狙いがありました。

前回の記事で見たノエル・キャロルの批評論では、批評を3種類に分類できることが分かりました。それ即ち、

  1. 対象の背景や分類を明晰に記述していく、解釈学型批評

  2. 作者の目的に着目してその到達具合を測る、価値付け型批評

  3. 鑑賞者の体験するものから作品の価値を考える、受容価値型批評

です。
ノエル・キャロルは、芸術を語る上で判決(価値付け)は避けられないという理由から、価値付け型批評を支持しています。アーサー・ダントーなどメインストリームの批評家は、判決は個々が行うべきで、批評家は作品の記述に努めるべきと、解釈型批評(カルチュラルスタディーズ)を支持しているようです。芸術は鑑賞において完成するという立場からは、受容価値型批評も現れますが、キャロルは評価を一定に定めることができないという理由で否定的でした。

これらの立場は、評価の仕方を主観と客観のどこに置くかの議論であると(雑に言えば)まとめられます。

主観-客観軸での批評分類

このように一元化して批評を分類する場合、私の定義する意味においての批評はどこに当て嵌められるでしょう?

批評と目的

キャロルの批評分類における私の批評観は、受容価値型批評に相当すると思います。私は「自分の感じた衝動を言葉によって構築し直し、その感動を深く味わい直す」ために批評をしようと思っているからです。考察対象の主眼を、「私の思い・感動・感想が、なぜ/どのように生じたか」を探ることに置いているので、対象の客観的記述を目指す批評の正反対に位置します。

学術探究(とりわけ芸術史)においてふさわしい批評は、価値付け型批評であると思います。意見が分かれやすい「価値」を扱う人文学系の学問において、積み上げを行うには動かせないゴールポストが不可欠です。なれば「作者の意図」という特権的な視点に着目し、それを土台にすべきとするキャロルの意見には賛同できます。鑑賞者に自由に作品を感じ取って欲しいという立場(例えば美術館でのキャプションのような)では、より中立的な解釈型批評が有効かもしれません。(個人的には、価値付けなしで芸術を語ることはできないというキャロルの意見に同意して、解釈型批評の"客観性"には疑問を感じます。)

先述の批評の三類系について、どれが一番優れているかを考えることは、とりあえず今の自分においては必要ありません。批評を使う場面や目的に合わせ、最適なアプローチを選択できることの方が大切です。

受容価値型批評の価値は?

では受容価値型批評が生きる場面とはどこなのか、受容価値型批評はどのようなバリューを発揮できるのか?
間違いなく言えるのは、「作品の価値を定める為には使えない」ということだと思います。自身の鑑賞体験を批評のとっかかりにすることは良いとしても、評価の土台を「自分の感想」に置き続けるのであれば、それは作品の客観的(間主観的)評価ではありません。受容価値型批評は、鑑賞観点を示すことはできるかもしれないが、作品の適切な(普遍的な)評価は語り得ないというのが、私のひとまずの結論です。

受容価値から作品を語ることは、作品そのものというよりも、その人自身の視点を語ることになります。その為、これを自分批評と名付けてみます。

自分批評が明らかにすることができるのは以下です。

  1. その批評者がどのような価値観を持っているかを明らかにすること。

  2. ある対象についてある価値観から鑑賞した際に、そこからどの様な結論・体験・感動を導くことができるかを明らかにすること。

自分批評のススメ

前項最後の自分批評の価値項目1が果たすのは、特に批評の語り手におけるメリットです。
私たちは、結局自分が何が好きで、何故それが好きなのか、案外分からずに生きていると思います。まぁ自分の価値観なんて分からなくてもいいし、分かったところですぐ変わるものです。ただ、自分の価値観を明らかにできると、自分への自信が増すとは思います。人はよく分からないものに不安を覚え、自分の力でそれに納得の解釈を与えることができれば安心感を手に入れられます。SNSが当たり前になった今、他者の評価を聞き続けるだけでは自分を見失いがちです。私たちが自分批評を書くことで、自己理解や安心を獲得できる、一つの手段になり得ると思います。

では自分批評は、語り手のアイデンティティ形成に資する役割しかないのか?
いえ、そうではないと思います。前項の項目2が果たすのは、自分批評の読み手におけるメリットです。
感受性は学ぶことができます。『「批評とは何か」、についてのマイストーリー』の記事で書きましたが、私は他者の批評を通して「そういう風にこの作品を受け取ることができるのねぇ〜」と自分の鑑賞能力をブラッシュすることができました。適切な手法で書かれた自分批評は、読み手の世界を広げることに役立てられます。

自分批評を、読み手においてより有用なものにしていくには、以下の達成が必要と思われます。

  1. 語り手が背負って立つ価値観が明確である(どういう背景・立場から語るのかを明確にする)

  2. 語り手がどの様にその感動に行き着いたか明確である(手法・経路が明確に語られている)

  3. 簡潔である(伝わりやすい)

要するに「何故その様に思い、どの様にしてそこに至ったか」が分かりやすく示されていればよいということです。
また、最近の心理学が示すように、自分は分裂して在り、究極の意味では他人です。上記のポイントを踏まえて書くことは、自分批評の書き手におけるメリットの達成も、高めることができると思います。
私は毎回「上手に文を書けるようになりたい」と言っていますが、それはここで挙げた意味においての「上手に」です。それは、記述がテクニカルであるに加えて、自分という謎・自分の感性に一歩立ち止まり、それを言葉に変換・加工する工程が必要です。

おわりに

この記事では、当初からの疑問であった「批評とは何か?」に答える目的で記載しました。
私の中での「批評」とは、数ある批評の中でも、自分批評という形で分類できる形での文章でした。

自分批評のメリットは上述の通りですが、加えて言えば”手軽さ”という長所もあると思います。
作品の質を正しく語るには、その歴史的文脈や背景に精通する必要があります。市場で出版されるようなそうした批評を「高級批評」とするとして、それを書き上げる為には大きなコストが必要です。「もの」を語る究極においては、そうしたプロフェッショナルな文章(つまり対象への深い知見を織り込んだ上での文章)を目指すべきとも思いつつ、その手前の批評実践は、どの様なことが可能なのだろうか、浅い知識でものを語ることの意味は・出発点はどこにあるのだろうかという疑問がありました。

自分批評は、自分の感じたことを出発点に思考を始めます。それは尚困難があるものの、高級批評と比較すると相対的には手に付けやすいです。そうして探究を始めることで、得られるであろうものを整理出来たことが今回の成果です。


次回以降、ここで作成したフレームに則り、自分の好きなものや興味関心を書き散らしていこうと思います。
が、今定義できた自分批評においてまだ謎は残っています。それは「自分(の感じた体験)を批評する」という行為がいかにして可能であるのか?・それは何を意味するのか?という謎です。次回この問題に立ち止まり、より優れた自分批評を書くための視点を考えてみようと思います。

最後までお読みいただきありがとうございましたmm

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