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夕涼み

はめ殺しの窓には、甘いカクテル色の空が広がっている。庭のニームの木が揺れている。蝉の声は少し遠くなった。私はベッドに寝そべって、眼鏡を外す。風鈴の音が聴こえる。一昨年の夏祭りで買ったものだ。か細くて低い音が、まるであの娘の声みたいで心地よい。

いつのまにか夏がきた。夏がきたっていうのに、私はこの部屋に籠ったまま。誰とも会わずに、誰とも話さずに、時折街に出ても、幽霊のようにさまよい歩くだけ。あの頃みたいな冒険は、もうできないのだろうか。重い荷物を背負って知らない土地を歩いたり、列車の窓にもたれて古い小説を読み耽ったり。陽炎の坂道を自転車押して帰ったこともある。クーラーの効かない実家の狭い部屋で友達と乾杯したことでもいい。とにかく生まれてから今日までの、ありとあらゆる夏の思い出が襲いかかってきて、溺れかけた私は、声を上げて目を覚ました。気づけば眠っていたみたいだ。

そういえばあの頃の夏もこんな感じだった。夏はいつでも美しくて、おだやかで、だから私は大好きなんだ。いつまでも変わらない夏の中に、変わってゆく自分が立っていることがいたたまれないのだけれど。

朝は一瞬にして過ぎ去って、昼は刻一刻と傾いて、いつもむなしく夜がくる。しばらく、堂々と夜を迎えられていないことを知る。追いかけた明日には届かず、立ち向かった今日にも撥ね退けられ、昨日を引きずりながらまた明日がくる。錆びついて、がんじがらめで、それでも私は生きてゆくのだろう。

台所に立って、レモンジュースを飲んだ。少しだけ頭が冴えた。思い通りにはいかないけれど、まったく見当はずれなことばかりでもない。だったら、不幸と幸福が入り混じったこの日常を、これからも愛してやればいい。またいつか冒険にも行けるし、またいつか笑い合えるはずさ。必ずまた夏はくる。それだけは真実なのだから。

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夏の思い出

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