見出し画像

温故知新(22)天智天皇 天武天皇 持統天皇 藤原氏 石上氏  

 660年に唐・新羅の連合軍が百済を滅ぼした際、百済最後の王である義慈王(在位:641年 - 660年)の王子扶余豊璋(ふよほうしょう)は国王となるために帰国しましたが、663年(天智2年)に倭国の軍勢は、百済復興を目指した白村江の戦いで唐の水軍に大敗しました。百済復興軍の弱体化は、豊璋が鬼室福信を殺害したことにあり、豊璋はその後、高句麗に逃れています。第34代舒明天皇の時代に豊璋と共に渡来した王族余善光(よのぜんこう)は、倭国にとどまり、持統朝に百済王(くだらのこにきし)という氏の名を与えられています1)。
 
 舒明天皇の皇子である中大兄皇子は、667年に都を飛鳥から近江大津宮(おうみおおつのみや)に移した後、668年に第38代天智天皇(てんぢてんのう 諱は葛城)として即位しています。天智天皇の治世には「近江令」の制定、学校制度の創始、戸籍の制定(庚午年籍)、土地制度の改革(班田収授)などが行なわれました。天智天皇は、滋賀県大津市神宮町にある近江神宮に祀られています。近江大津宮遺跡とオリンポス山を結ぶラインは豊受大神を祀る元伊勢籠神社の近くを通ります(図1)。これは、天智天皇と豊受姫命との血縁関係を示していると推定されます。

図1 近江大津宮遺跡とオリンポス山を結ぶラインと元伊勢籠神社

 天智天皇の弟が、第40代天武天皇(大海人皇子(おおあまのみこ))ですが、実際には、天武天皇が天智天皇より9歳年長で、二人の母親の皇極(斉明)天皇の連れ子の漢皇子(あやのみこ)が後の天武天皇という説があります2)。漢皇子は、その名から東漢直が資養にあたったとされ、父親の高向王とともに蘇我氏との関係が強かったと推定されています。大伴吹負や東漢氏は、672年に起こった壬申の乱では、大海人皇子に味方していますが、尾張国司も大海人皇子に帰属しています。天武天皇は、677年(天武7年)に、東漢直らに、七つの不可(あしきこと)への恩赦を与えています2)。『日本書紀』には蘇我氏と血縁のある鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ・大海人の妻で後の第41代持統天皇)が大海人皇子と「ともに謀を定め」たとありますが、鸕野讃良皇女が乱の首謀者であるという説があります。

 白村江の戦いの後、唐と新羅は敵対しましたが、天武天皇以後、836年に至るまで遣新羅使(けんしらぎし)が派遣され、盛んに新羅との交流を深めました。増尾伸一郎氏は「天皇号の成立と東アジア」により、唐の高宗によって採用された天皇号が、天武朝に新羅経由で伝わったことを証明しています3)。持統天皇の治世は、天武天皇の政策を引き継ぎ、完成させるもので、飛鳥浄御原令が制定され、藤原京が造営されました。キトラ古墳は、藤原京の南に広がる墓域にある円墳で、7世紀末~8世紀初頭頃に造られたと考えられています。石室内には、四神、十二支、天文図、日月の壁画がありますが、壁画は高句麗壁画に類似し、天文図は平壌辺りから見た星図ではないかという説もあります。
 
 唐は、690年に2代皇帝・高宗の皇后だった武則天によって国を奪われ、武周朝が建国されています。遣唐使として知られる奈良時代の吉備真備(695年ー775年)は、吉備国下道郡の生まれで、稚武彦命の子孫とされ、父は下道圀勝で、母は楊貴氏とされます。746年に、下道朝臣姓から吉備朝臣姓に改姓しています。父の下道圀勝の「圀」の字は武周の「則天文字」の一つで、徳川光圀の名前にも使用されています。日本各地には、安史の乱を逃れた楊貴妃が流着したとの伝承を持つ地があり、熱田神宮の境内には楊貴妃の石塔と言われるものがありますが、楊貴妃は、北魏の冀州(きしゅう)刺史の楊順の末裔にあたるようです。

 藤原京時代の西暦694年~710年の間に作られた「高松塚古墳」と「キトラ古墳」について、京都大学教授の樋口隆康氏は、壁画や副葬品が北方系の拓抜族のもので、初唐時代の文物であることから、東漢民の多く住んでいた檜隈の地にある「高松塚古墳」や「キトラ古墳」は、東漢氏一族のものと考えるのが最も妥当と記しています(高松塚を推理する No.736(昭和52年7月)号)。

 熱田神宮の熱田大神は天照大神とされていますが、鹿島神宮の末社の熱田社には、素盞嗚尊と稲田姫命が祀られています。中臣氏・藤原氏の氏神を祀る春日大社が創建されたのは768年で、765年に尾張の熱田神宮から勧請された島根県浜田市熱田町にある熱田神社は、日本武尊と美夜受比売(宮簀媛)を祀り、素戔嗚尊や稲田姫命も祀っていますが、天照大神は祀っていません。瀧音能之氏によると、皇祖神がタカミムスヒ神からアマテラス大神に交代したのは、7世紀の後半から8世紀前半くらいの時期といえるとしています4)。熱田神宮の大宮司職は元は代々尾張国造の子孫である尾張氏が務めていましたが、中世頃に熱田神宮大宮司が尾張氏から藤原氏に代わったようです。

 天照大神を奉じた大海人皇子によって亡ぼされた天智天皇の皇子である大友皇子(おおとものみこ)の「とも」は、「(とも)」や「巴紋」と関連すると推定され、八幡神倭建命)と関係があると思われます。歴代天皇の漢風諡号(かんぷうしごう)を定めたのは、大友皇子の王子葛野王(かどのおう)の孫の淡海三船で、奈良時代後期には石上宅嗣(いそのかみやかつぐ 石上麻呂の孫)とならんで「文人の首」と称されました。奈良県橿原市城殿町の木殿神社は、天兒屋根命と素盞嗚命を祀っていますが、藤原京の造営に当たって、木の神の須佐之男命を祀ったと思われます。橿原市の鷺栖神社(さぎすじんじゃ)は、天児屋根命、誉田別命、 天照皇大神を祀っていますが、「三つ巴」を神紋とし、元は八幡神(誉田別命)が主座だったようです。

 石上麻呂(麿 いそのかみ の まろ)は、天武13年(684年)朝臣の姓を与えられ、この頃に氏の名を物部から石上と改めたと推定されています。壬申の乱で大友皇子の最後までつき従い、天武天皇に起用された理由は、忠誠を評価されたためではないかと言われています。『竹取物語』においてかぐや姫に求婚する5人の貴公子の一人である「石上まろたり」のモデルであるとされています。708年、石上朝臣麻呂は長く空席であった左大臣に任ぜられ、710年に都が平城京に遷ったとき、石上麻呂は、旧都の留守司になり、717年に死去しています。

 藤原京にある春日神社群の向きから、耳成山を頭として巨人像が描かれていることが知られています(図2)5)。巨人像は、オリオンではなく、ヘルメースから授かったハルペーとアテーナーから授かった青銅の盾を持ったペルセウス(須佐之男命と推定)と思われます。剣を持った手の付近に天香久山がありますが、山上氏は、剣の矛先は藤原不比等の墓に向いていると推定しています5)。また、挙げた片足の下に、蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳や東漢氏の墓と推定されるキトラ古墳があることから、呪術的な意味があると思われ、巨人像が作られたのは、蘇我馬子が亡くなった626年より後と推定されます。巨人像が春日神社群で作られていることから、巨人像が作られたのは、春日神社の祭神が和珥氏の一族の春日氏の氏神だったころで、中臣氏・藤原氏の氏神を祀る春日大社が創建される768年より前と推定されます。7世紀に、災いの原因となる邪気や悪鬼を防いだり、駆逐するための呪文や符号を書いた木札(呪符木簡)が出現し、全国の8例のうち6例は藤原宮跡から出土しているようです。

図2 飛鳥の地上絵(出典:山上智 学研)とGoogleマップの合成図

 石舞台古墳は元は方墳で、封土を剥がしたのは、蘇我氏に恨みを持った後世の人々が報復のために行ったという説があります。しかし、労力的にもかなり地位のある人が主導したと考えられます。物部氏の石上麻呂は、701年に大納言となって以後、政治の中枢に携わり、右大臣、左大臣に任じられ、717年で死去するまでの数年は太政官の最高位者でした。高句麗系の渡来人と推定される蘇我氏は、古墳時代から飛鳥時代(6世紀 - 7世紀前半)に勢力を持ち、代々大臣(おおおみ)を出していました。藤原不比等は、678年頃に蘇我連子の娘・蘇我娼子を嫡妻として迎えています。文武天皇2年(698年)には、不比等の子孫のみが藤原姓を名乗り、太政官の官職に就くことができるとされました。不比等は、『日本書紀』が完成した養老4年(720年)に病死しています。

 591年頃に生まれ、622年頃に亡くなったと推定される崇峻天皇(厩戸皇子と推定)は、蘇我馬子によって暗殺されたと考えられています。また、『聖徳太子伝暦』では、排仏派だった中臣勝海が殺されたのも馬子の命によるとされます。乙巳の変で実際に蘇我入鹿を討ったのは、Y染色体ハプログループから「韓人(からひと)」と推定される中臣鎌足と思われるので、石舞台古墳(馬子の墓)などの封土を剥がすことを主導したのは、藤原不比等かもしれません。

 秦氏ゆかりの松尾大社は、大宝元年(701年)に、律令制の施行とともに、藤原氏の意向が反映されたかたちで創建されています。饒速日命(瓊瓊杵尊と推定)の直系子孫である物部氏のY染色体ハプログループは、天皇家のものと同じD系統なので、聖徳太子秦河勝や馬子と協力して物部守屋を討ったという話は、Y染色体ハプログループO系統同士秦氏と血縁関係のあった藤原北家の創作と推定されます。

 巨人像の頭の部分の耳成山(みみなしやま)は、天香久山(あまのかぐやま、あめのかぐやま)、畝傍山(うねびやま)とならんで大和三山の一つをなしています。山頂よりやや低い場所に耳成山口神社があり、祭神は高御産霊神と大山祗神の二柱ですが、明治時代以前は農耕神・水の神を祀る天神社であったとされます。耳成山は、瑜伽山(由加山)の由加神社本宮と同緯度(北緯34度30分)にあるので(図3)、豊受大神と関係付けられていると推定されます。

図3 瑜伽山(由加山)の由加神社本宮と耳成山を結ぶライン

 アララト山には、標高5,137mの大アララト山と標高3,896mの小アララト山があります(写真1)。ギョベクリ・テペと瑜伽山(由加山)を結ぶラインは小アララト山を通り、耳成山を結ぶラインは大アララト山を通ります(図4,5)。

写真1 左が小アララト山、右が大アララト山 
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
図4 瑜伽山(由加山)とギョベクリ・テペとを結ぶラインと小アララト山、 ギョベクリ・テペと耳成山を結ぶラインと大アララト山
図5 瑜伽山(由加山)とギョベクリ・テペとを結ぶラインと、
ギョベクリ・テペと耳成山を結ぶライン

 「和珥氏」の「」には「耳の飾り玉」の意味がありますが、「王」と「耳」に分けられます。前方後円墳の前方部は円形の古墳につけた祭壇が変形していったものといわれていますが、耳成山は、かつては「耳無山」ともいわれ、古墳という説もあるので、前方後円墳の前方部は「王の耳」を表していたのかもしれません。

 藤原不比等は、天智天皇から藤原氏の姓と大織冠(たいしょっかん)を賜った中臣(藤原)鎌足の次男です。不比等は鎌足の子ではなく、天智天皇の落胤であるとの説がありますが2)、大織を授けられたのは藤原不比等のみが知られ、大織と小織は唐が高句麗・百済・新羅の王に一品相当の官を授けたことにならい、外国の王に授けることを想定した冠位だったとする説もあります。また、『竹取物語』の貴公子の1人「車持皇子」のモデルは不比等とする説がありますが、『新撰姓氏録』によると、「車持公」は「豊城入彦命之後」となっています。

 不比等は、天武7、8年頃(678年頃)に蘇我連子の娘・蘇我娼子を嫡妻として迎え、蘇我氏と血縁のある第41代持統天皇に抜擢されました。701年(大宝元年)に制定された大宝律令は、唐の律令を参考にしたと考えられ、藤原氏に有利な蔭位制(おんいせい)が導入されています。第43代元明天皇(げんめいてんのう 在位:707年- 715年)は、天智天皇第四皇女子ですが、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘の姪娘(めいのいらつめ)で、不比等を重用し、708年に右大臣に任じました。蘇我倉山田石川麻呂は、乙巳の変の計画に賛同し協力していますが、後に異母弟の蘇我日向に謀反を起こそうとしていると讒言され、孝徳天皇により派遣された蘇我日向と物部氏の穂積咋の兵に包囲され、妻子8人と共に自害しています。

 京都府亀岡市(丹波国)にある出雲大神宮は、『丹波国風土記』逸文に「元明天皇和銅年中、大国主神御一柱のみを島根の杵築の地に遷す」の記述があるといわれ、「元出雲」の別称があります。出雲大神宮とオリンポス山を結ぶライン上に福知山市(丹波国)にある豊受大神社(元伊勢外宮)があります(図6)。丹波国は出雲・大和の両勢力の接点にあり、出雲大神宮は、国譲りの所由によって祀られたとされます。また、『日本書紀』によれば、オオクニヌシが退去した後の葦原中国に、アマテラスの孫であるニニギノミコトが降臨したとされます。瓊瓊杵尊が降臨したとされる場所は摩耶山と推定されるので、『日本書紀』にある「葦原中国」は丹波国を中心とする地域かもしれません。

図6 出雲大神宮とオリンポス山を結ぶラインと豊受大神社(元伊勢外宮)、摩耶山

 『古事記』は、序によれば和銅5年(712年)に太安万侶が編纂し、元明天皇に献上されたことで成立しています。『古事記』は、数多い口伝えを、天武天皇が稗田阿礼に覚えさせ、元明天皇が、旧辞や先紀(帝紀)に誤りが多いのを正そうとして、太安万侶に書き留めさせたものとされています。太安万侶は多氏の一族で、天智天皇に近い人物と考えられ、『古事記』の序第一段は、太安万侶の言葉と思われます。太安万侶墓伝承地は、多坐弥志理都比古神社の近くにありますが(図7,8)、1979年に、奈良県奈良市此瀬町の茶畑から安万侶の墓が発見されました。「太安萬侶墓」は、瀧原宮(豊受姫命を祀っていると推定)とギョベクリ・テペを結ぶライン上に位置しています(図7)。

図7 瀧原宮とギョベクリ・テペを結ぶラインと太安萬侶の墓(赤印)及びギョベクリ・テペと太安万侶墓伝承地を結ぶライン
図8 ギョベクリ・テペと太安万侶墓伝承地を結ぶラインと多坐弥志理都比古神社

 第44代元正天皇(げんしょうてんのう 在位:715年- 724年)も女帝で、父は天武天皇と持統天皇の子である草壁皇子、母は元明天皇です。『日本書紀』は、天武天皇の681年の史書編纂の詔から40年近くの歳月をかけて720年に成立し、720年には藤原不比等が亡くなっています。『古事記』では、中臣の祖とする天児屋根命と忌部の祖とする太玉命は対等で、『日本書紀』では、天児屋根命が主で太玉命は従として描かれているともいわれ、また、上田正昭氏は、『日本書紀』では、巻第14(雄略天皇の巻)以降が実録風の記述となり、外交関係記事も増加し、雄略天皇の代からを近き世として強く意識して編纂されていると記しています6)。森 博達氏は『日本書紀』について、音韻論に基づいて、α群(正しい中国音に基づく漢字を使用)とβ群(倭音や呉音に基づく漢字が混在)に分類し、巻第14(雄略天皇)から巻第21(用明天皇・崇峻天皇)をα群としています7)。最近の研究では、渡来・帰化した中国人が『日本書紀』の編纂に携わっていたことが明らかになっているようです8)。

 春日大社には、中臣氏・藤原氏の氏神が祀られ、主祭神が武甕槌大神(鹿島神)となっていますが、『大鑑』には藤原鎌足が鹿島神宮の神官を務めたあと都にやって来たと記され、のちに藤原氏の庇護を受ける奈良の春日大社に武甕槌大神と経津主大神が勧請されたようです。中臣氏の祖の天児屋根命を主祭神とする枚岡神社(ひらおかじんじゃ)では、藤原氏が春日大社を氏神とした際に、春日大社と同様に武甕槌大神、経津主命を勧請して2祭神から4祭神に改めたと推定されています。

 『常陸国風土記』の編者には、藤原不比等の子の藤原宇合がいたので、不比等は中臣氏の祖の国摩大鹿島命(くになずのおおかしまのみこと)を鹿島神宮の武甕槌大神(加具土命と推定)と結び付けて氏神としたのかもしれません。香取神宮の祭祀氏族は、経津主の子を始祖とし、子孫の豊佐登が「香取連」を称しましたが、その後、大中臣氏が香取連に養子に入り、平安時代末期までは大宮司・大禰宜とも大中臣氏が独占したようです。

 春日大社には、元々春日の地に祀られていた地主神が、廻廊隅にある榎本社として祀られています。常陸から遷って来た春日明神が、春日山の神に、山を三尺借りたいと申し入れ、耳の不自由な春日山の神は、詳細を聞かずに承知したところ、春日明神は、山全体の地下三尺であるとの理由を付け、結局、山全体を領するようになったといわれています。春日大社の中央とギョベクリ・テペを結ぶライン上には一言主神社があるので(図9)、地主神は允恭天皇の皇子の大長谷若建命と関係があると推定されます。ギョベクリ・テペと榎本神社を結ぶライン上には、明治の廃仏毀釈の際に藤原氏の創建した興福寺大乗院から移された衝立船戸神(結界の神)を祀る船戸神社があります(図9)。

図9 春日大社の中央とギョベクリ・テペを結ぶラインと一言主神社、ギョベクリ・テペと榎本神社を結ぶラインと船戸神社

 岡山市北区にある榎本神社の祭神は不明ですが、榎本神社とギョベクリ・テペを結ぶラインの近くには、八束水臣津野命を祀る長浜神社があり、榎本神社とオリンポス山を結ぶラインの近くには、熊野大社元宮斎場跡があるので(図10)、榎本神社には須佐之男命が祀られていると推定されます。したがって、春日山の地主神も須佐之男命と推定されます。榎本姓の多くは紀伊をルーツとし、「鈴木氏」「宇井氏」とともに熊野権現の御師の家柄とされます。

図10 榎本神社(岡山市北区)とギョベクリ・テペを結ぶラインと長浜神社、 オリンポス山と榎本神社と結ぶラインと熊野大社元宮斎場跡

 紀伊神社(きいじんじゃ)は、近世には春日大社の「奥の院」と称され、主祭神は須佐之男命の子神の五十猛命です。紀伊神社とオリンポス山を結ぶライン上には、春日大社末社の夫婦大國社があります(図11)。

図11 紀伊神社とオリンポス山を結ぶラインと夫婦大國社

 紀伊神社や夫婦大國神社は、須佐之男命の墓と推定される鯉喰神社弥生墳丘墓や饒速日命(瓊瓊杵尊)の墓があると推定される天王山古墳群とほぼ同緯度にあります(図12)。

図12 紀伊神社と鯉喰神社を結ぶラインと天王山古墳群

 第46代孝謙天皇(在位:749年-758年)の父は聖武天皇、母は藤原氏出身で史上初めて人臣から皇后となった光明皇后(光明子)です。757年に橘諸兄の子の橘奈良麻呂が天皇の廃立を企てたとされ、密告により露見して未遂に終わった橘奈良麻呂の乱がありました。この事件に連座して流罪、徒罪、没官などの処罰を受けた皇族や役人は、長屋王の子などの皇族、藤原南家、多治比氏、大伴氏、佐伯氏、賀茂氏、小野氏など443人にのぼるとされています。武寧王の後裔である百済王敬福(くだらのこにきし きょうふく)は、橘奈良麻呂の乱などで功績があったとされています。

 758年に孝謙天皇は重用していた従兄にあたる藤原仲麻呂の進言により、天武天皇の皇子・舎人親王の子(第47代淳仁天皇)に譲位し、上皇になりますが、藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱の責任で淳仁天皇を退位させ、764年に重祚して第48代称徳天皇となりました。769年に宇佐八幡宮の神官を兼ねていた大宰府の中臣習宜阿曾麻呂が宇佐八幡神の神託として、称徳天皇が寵愛していた道鏡を皇位に就かせれば天下太平になると奏上し、和気清麻呂がこれを阻止しています(宇佐八幡宮神託事件)。

 百済の夫餘氏の子孫で和氏の和乙継(やまとのおとつぐ)を父とし、土師真妹を母とする高野新笠(たかののにいがさ)は、天智天皇の孫にあたる白壁王(後の光仁天皇)の宮人(側室)となり、737年に山部王(後の桓武天皇)を生んでいます。白壁王は、744年以後、井上内親王を正妃に迎え、称徳天皇の崩御により天武系皇統が断絶すると、62歳で擁立され第49代光仁天皇(在位:770-781年)となりました。772年に井上皇后は、呪詛による大逆を図った罪で皇后を廃され、他戸親王も同年5月に廃太子となり、775年に幽閉先で死去しています。井上内親王の光仁天皇呪詛事件は、山部親王の立太子をもくろむ藤原良継藤原百川ら藤原式家一派の陰謀とする解釈があるようです。

文献
1)上田正昭 2013 「渡来の古代史」 角川選書
2)武光誠 2005 「面白すぎる日本神話と古代史の謎」 リイド文庫
3)大山誠一(編) 2003 「聖徳太子の真実」 平凡社 
4)瀧音能之 2016 「古代史の謎大全」 青春出版社
5)山上 智 2006 「飛鳥の地上絵 呪いの巨人像」 学研
6)上田正昭 2012 「私の日本古代史(下)」 新潮選書
7)森 博達 1999 「日本書紀の謎を解く」 中公新書
8)遠山美都男 監修 2016 「新解釈 日本書紀」 別冊宝島2493号 宝島社