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存在とは何か

 子供みたいな事言うな。
と怒られるかもしれないが、存在とは何だろう。

 世の中は存在している。世の中にある宇宙は存在している、宇宙と呼ばれる広大な存在の中に、人の住みかである惑星、それは地球と呼ばれているが、それも勿論存在している。その地球には、人の存在が可能な環境が存在している。そして、それら存在の中に、人が、人として存在している。そして、これら現象を確認しているのも、その中に存在している人である。考えてみれば不思議で不可解な話だが、これら存在は現実であり間違いはない。

 私達は、この世の中に、ある時存在する様になった。いつから人が地球と呼ばれる環境の中に存在するようになったのか。起点は何時、何処なのであろうか。私達が存在する以前と言う事態は存在するのか。無は存在するのか。無は存在と言えるのか。

 数字の0は無ではない。質量として0は0であるかもしれないが、0は桁を伴い、0が存在しなければ数字は数字として成り立たず存在しない。無は、無と言う存在を伴い、無は「ない」と言う存在を示し、それは無でありながら「ない」と言う意味として実在する。
 つまり、何も無い世界と言うのは「その『何もない』と言う言葉がある」が故に存在しない。だから「存在しないと言う事実」は理論上ありえない。なぜなら「その言葉そのものが存在している」のだから。

 実は、人は、この世界、この世が今の形として成り立つ以前から存在していた事になる。人は、今、目にする事の可能な、物質だけが進化を遂げた存在ではない。その物質だけではない人が、ある時、この世界に物質として身体を持ち誕生する。質量を持った物理的存在として、この世界にある、地上の姿形を持つ。そして、その人個人の、世の中での存在が認められ、始められる。「存在」とは何か、と思いを馳せる事が出来る存在として人が存在するようになる。人は自分が何であるのか、と自問出来る。これも不思議な現実である。
 人以外、他の生き物はそれを考える事が出来ない。犬や猫は自分の存在について疑問を持つ事は出来ない。人は何処にいたのか、そして何処に向かっているのだろうか。人の存在とは何なのであろう。

 人は、この世界では物理的存在と言う質量を持つ姿形をとってはいるが、本当は、人の中にある人が人の本質で「人そのもの」である。人の中にある本質が、物質である身体とリンクし、物理的活動、動作を行い、音を発し、表現をし、それらによって、人の本質をこの物理的世界で身体による具現化を達成している。
 物質である身体と言う有機体の中に入っているのが本来の人であって、その本来の人は、リンクしている身体によって、この世界での存在が認められている。身体とのリンクが途絶えれば、人は、この世界では存在を認められないものとなる。所謂「死」の状態。
 人そのものと身体とのリンクが切れると、物質である身体はこの世界に残るが、もはやそれは人では無く、中身の無い肉塊だけとなる。

 私達は、ある時、誕生によって、この世界での活動が許され存在するようになる。そしてそれぞれに与えられた時間をくぐり、私達個人と身体とのリンクが切れると、この世界での存在活動の停止を余技なくされ、地上で関わった人々の中にある記憶だけの存在となる。
 確かにそれは、存在はしていたが、ひとたびリンクが切れると、もうこの世界での存在とは言えない。この世界では活動が停止し、活動が停止した物理的存在である身体は、時間を経て、この世界に存在している微生物の働きによって分解され土に帰る。

 私達が形を持ってこの世界で活動出来るほんのわずかな体験が一般的に言う、私達の「生涯」であり「人生」である。確かに私達はある時、ある一定の期間、実存と言う存在を経験する。そしてある時この世界から去り、私達は物理的造形を持った存在では無くなる。

 存在とは何だろう。存在しているとは何だろう。存在していたとは何だろうか。
 恐らく、これはいくら考えても、著名で能力や知性に優れた人物であったとしても、人では説明できない。その人個人が何人(なにびと)であったとしても、人では、自分の悟りによって、その存在の意味や意義を説明する事は出来ない。仮に説明する人がいたとしても、果たしてそれが正確な事実であるかどうかを検証する事も証明する事も出来ない。つまり、人は、実は、存在しているだけの存在である。そしてその意味や理由を自分で図り知る事が出来ない。

 私達はあまりにも現実に慣れ親しみ過ぎてしまっている。宇宙と呼ばれているモノは果てしない。その中に無数の銀河と呼ばれるモノが存在し、その中に惑星と呼ばれる秩序立ったモノの集まりが存在し、その惑星の中で地球と呼ばれている球体の、環境が整えられている地表上に生活する人は、それら環境と現実に馴染み、慣れさせられ、私達はそれらを「自然」と呼び、極当然の事として受け入れさせられてしまっている。この不思議で不可解な現象の何事にも疑問を持てずに、ただ地表に存在し続けているのである。

 朝になると太陽が昇る。朝とは何か。それは物事の始まりである。
その朝は光に満たされる。実は物理的に解釈すれば、太陽が地表から昇るのではなく、地球と呼ばれる球体が自ら回転しながら、太陽と呼ばれる球体を周回しているから、朝昼夜の時間帯と四つの季節が起こっている物理的現象であって、それは小学生でも知っている。
 そして、この不思議な現象を私達は毎日、毎年、そして毎瞬間経験しているから、私達にとって、これは馴染んでいる極当たり前の出来事になってしまっている。これら出来事に対し何の疑問も持たない場合、それは、その人にとって理由の無い表面的な出来事であって、単なる「自然」にしか過ぎないのだから。自然とは一体何であろうか。

 昼が過ぎ、夕方になると太陽は沈む。その夕方が通り過ぎると、夜になるが、その夜とは何か。それは物事の終わりである。夜は闇に満たされ、私達は人が造りだす光によらなければ活動する事が出来ない。人工的な光は、私達の暗闇での活動を可能にはするが、事態そのものを変える事は出来ず、基本的には夜であって、人は何も確認する事が出来ない闇に包まれる。私達には何も見えない夜が来る。
 そして私達は次の朝目覚める事を信じ、当然のごとく眠りに入る。この連続が途切れるまで、私達が生存している間、この当たり前の経験は繰り返される。

 朝が来て夜が来る。私達が目覚め、意識が覚醒した朝。それに続き昼間の活動があり、そして夜を迎え、私達は活動を休止する。活動出来る昼間は、朝と夜との間だけで、一日の半分にも満たない。これが私達に当たり前の様に感じさせられている人生である。人生は短期間、短時間でしかない。私達が活動出来る昼と言う人生は、ほんのわずかの間でしかない。

 私達は永遠の存在である。ある時、この地表で誕生と言う朝を迎えた。成長し、活動し、衰退する。そして夜を迎え、眠りに着く。毎日は、その終焉を迎えるまで繰り返されるが、私達の一度だけの生涯である「人生」は繰り返される事はない。ただ一度この世界に誕生し、人格を覚醒させ存在し、一定期間の活動を経て、そして、ただ一度、死を経験する。

 死が、この世界にある物理的身体と、私達そのものとのリンクが切れる事であるなら、私達そのものとは何か。それは無数に存在する私達本来の人である。私達はこの物理的世界では、物理的法則に縛られ制限がかけられているが、見えない世界の中では制限無く「在る」ものとして意識が消え去る事は無い。

 従って、この世界での物理的「存在」は一時的なものであり、私達そのものの意識は果てしなく続く。これらの事は現実であり間違いは無い。私達はこの世界から離れたとしても、決して無くなる事の出来ない固有の個性と意識を持つ「存在」なのである。

 いかなる場合でも存在が無くなると言う事実は存在しない。0は無を現わしてはいない。私達の存在は、意識と個性を持ったまま、最初から持たされていた永遠を経験する。無数にある、私達ひとりひとりが「存在そのもの」であって、物理的身体とのリンクが切れる死を持ってしても消滅する事は出来ない。

 私達は何処から来ていて何処へ行くのか。
大人になるとこのような事を考えるのを忘れがちだが、私達が考えても、考えなくとも、何も考えず地上の生涯を終えたとしても、なんらかの形で「私達そのものの存在」は終わる事無く、永遠に続けられていく。

 今経験させられている物質である身体は、時間の経過で傷み、綻び、破壊され、作動不能となり最終的結末を迎え、土に帰る。しかし、その中に在る人そのものは、老いる事も死ぬ事もできない。人の存在は、たとえ地上での死を経験したとしても消えて無くなる事はない。
 時折私達は、それを「魂」と呼び、私達の肉眼では見えない世界の存在を自ら肯定している。

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