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『一陣』第三章

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第三章

 中山道、熊谷宿の近くにある茶屋は繁盛していた。老夫婦が遅くにもうけた娘が店先に立つようになってからは、殊更に。娘は十六になる。名をお通という。お通は行き交う旅人を見るのが好きだ。自分はここを出ることはないが、立ち寄る幾人もの旅人を見ていると、共に津々浦々を旅しているような心地になれる。彼らの喉を自分が出す一杯の茶が潤す。自分の愛想が彼らを癒す。お通は自分の容姿が頭一つ抜けていることを自負しており、それを商売にも惜しみなく発揮していた。老いた両親はなぜかたまに非難めいた視線を投げてきたが、彼女は気づかないふりをしていた。男どもからちやほやされるのは正直気分が良いのである。それが商いにも繋がるのだ。何を否定するというのか。
 その女は、いや、厳密には女になろうとしている時分に見える、女は静かに店先の腰掛へ座った。おそらくお通と同い年程度だが、彼女は自分の方が随分〝女〟であると思った。そうして少し得意になりながら、女に茶を出した。
「一人かい?凄いね、あたしなんかここから出たことないよ。何か食べる?茶漬でもお出ししようか?」
お通は女を前にすると、途端に戸惑ってしまった。なぜならば、彼女が思いのほか鋭く、大人びた空気を持っていたからである。それで彼女は、馴れ馴れしいような丁寧なような、なにやら面妖な言葉遣いをしてしまった。その女は三度笠を脱ぎ、涼やかな顔をあらわにして、藍色の着物に緋の蹴り出し、藍染めの脚絆の対比が美しい旅姿で凛と座っていた。旅の者にしては色が白い。が、弱弱しい印象はない。むしろひりつくような空気を纏っていた。勧めた通り茶漬を頼むと、遠く視線を投げていた。お通はなにがなし、女から目が逸らせなかった。この歳で一人旅などするだろうか、地元にでも一時戻ってきて、江戸の奉公先にでも帰るのだろうか。やけに興味がそそられる。お通は男衆に持て囃される喜びを一時中断して、彼女と話してみることにした。
 茶漬を出すと、女は丁寧に受け取り、静かに食べ始めた。いつまでもその場を去らないお通を少々訝しげにちらりと見た。お通は気を取り直し、大丈夫、私の方がこの人より優れている、だって男は私のような女の方がきっと好きだもの、と、先ほどのしどろもどろな口上を取り返すように話し出した。
「どこへ行くんだい、一人で?」
女はほうっとため息をつき、茶漬を膝の上へ下ろして答えた。
「江戸へ。」
「江戸かい。熊谷宿よりずっと人が多いんだろう?みんなどこを見ても人だらけでびっくりしたと言うよ。一度江戸見物とでも決め込んでみたいものだねえ。奉公先でもあるのかい?」
「どうだかね。」
女はそっけなく答えにならない返答をよこして、そうして黙ってしまったかと思うと、急に話を振ってきた。
「お前さんはずっとこの店の娘なのかい。随分と男衆に人気があるね。」
それは称賛の皮をかぶった軽蔑のように聞こえた。いや、お通の気のせいかもしれない。
「私目当てに行きも帰りも寄ってくれるお客だっているんだよ。もうすぐ近くの家の次男坊が私をもらってくれるけど、そいつが酔狂な奴でさ、この店をあたしら二人で継ぎたいと言うんだよ。両親は随分喜んだね。まあ、次男坊なんか貰うものも貰えんからね。あたしと結婚できるなんて運のいい男じゃないか。」
からりと笑ってそう言うと、女は意外な目をした。これは憐憫だ、お通は確信した。しかしその理由は分からなかった。あたしは幸せなはずだ、なのになぜこのような視線を投げられるのだろうか。
「……お前は幸せなんだね。」
「そうさ、幸せもんだ。」
食い気味に答えた。
「夫を持っても今のように嬌態を演じるのかい。」
お通には〝嬌態〟の意味が分からなかったが、なにやら非難めいたことを言われているのは分かった。
「商売だろ、悪いかね。」
「いや、悪くはない。失礼を言った。申し訳ない。ただ虚しくないのだろうかと疑問に思っただけだ。男どもに持て囃されることに慣れると、自分が女でしかないような気がしてこないかい、お前さんは?」
お通は先ほどよりさらに意味が分からず混乱した。自分は女だ。当たり前ではないか。
「お前さんは女である前に人だろう。」
全く意味が分からない、お通は愛想笑いをして、他の客のもとへとその場を去った。変わった女だ。なぜか言葉が残る、この引っ掛かりはなんだろうか。
 
 次の朝、顔を洗っていると、不意に女の言葉を思い出した。「女である前に人」とはどういう意味だろう。私は女だ。それ以上でも以下でもないじゃあないか。人なのは当たり前だ、女と人は別なんだろうか。考え込んでいると、台所から母が呼ぶ声がした。
 今日も忙しくなりそうだ、そう思ういつもの心はしかし、女の言葉が燻っていた。
 
 その年の冬、お通は村の男と細やかな祝言を挙げた。うちの店へ入るのに、その男は家で一番良い食事をとる。いつも一品多めに料理をこさえながら、ふと沸き上がるこの鬱々とした気持ちは何だろうと、お通は度々頭をもたげるようになった。初夜は断る理由が無いのでそのまま受け入れた。ひどく痛んで叫んでしまいそうだったが、きっとこれが普通なのだろうと、声を押し殺していた。夫はなぜか嬉しそうだった。次の日、夫の目に蔑みの色が見えた気がしたが、気のせいだと片づけることにした。夫は無言で茶碗を突き出すようになった。彼は店先には立たない。頭は丸髷に結うようにしたが、それ以外での振る舞いは変えなかった。相変わらず男達に軽やかに明るく接していたが、非難めいた視線が一つ増えたことにも気づいていた。夫である。でも夫は何も言わない。ただ、いつもよりお客との話に花が咲いた日は、乱暴に自分を抱くようになった。悋気かとも思ったが、どうも違う気がする。そう思っているうちに、お通の腹は膨らんできた。
 
 早朝に蒲団のそばへ置いた桶に吐いていると、夫の苛立ちを孕んだ咳払いが聞こえた。這う這うの体で厠へ行き、また吐いた。もう固形物は何も出てこない。汚く臭う吐瀉物がするすると口から流れ出るとき、子を授かるとはこんなにも孤独なものなのだろうかと、拳を握り締める。それでも重い腹は愛おしい。愛おしいはずである。そうに決まっている。お通はいつの間にか自分へ言い聞かせるようにそう考えていることに、ついぞ気が付かなかった。自分は子供を愛している、その考えだけに縋って耐えた。気が付かない方が楽なことが人生には多々ある。例えば夫の重苦しい視線など。
 秋風がさらさらと木々を揺らし始めた頃、お通は子を産んだ。女だった。夫は「そうか。」とだけ言った。
 やっと泣き止んできゃらきゃら笑う子をあやしながら、お通はいつぞや店へ来た女を思い出していた。ずっと燻っている言葉を反芻した。私は女だろうか、人だろうか。男は人だ。でも女は人なのだろうか。そう比べてみると、男と同じ人であるとは思えない。東雲の冬は凍るほど冷える。赤子はよくよく温かく包んで、自分は薄着で出てしまったことを後悔しながら、この世が生まれる瞬間に立ち会うような心持で、段段と明けてゆく空を見つめた。まるで今、ここに在るのは自分だけのようである。
 私は女だろうか、人だろうか。お通はかじかむ指先を無視して、中々家へ戻ろうとしなかった

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