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龍神さまの言うとおり。(第14話)

愛媛県、八幡浜高校内にある生徒会室の入口ドアが、ゆっくりと開いた。

「お邪魔しま~す」

そう言いながら俯き加減で恥ずかしそうに部屋の中へ入ってくる恭子の仕草は、いつ見ても愛くるしい。洋介はそう感じた。

「これ、ダンスのタキシードに仕立てた学生服。もう元に戻したから、ついでに持って来ちゃった」

「ありがとう」

体育祭の演目であるダンスタイムに着る衣装は、クラス毎に恭子を含む複数の女子生徒たちが仕立てていた。その中でも、男子学生達が着るタキシードは、黒の詰襟学ラン服に白い襟を縫い付けることで、ダンス用に作り変える作業をしていたのである。

「何か、学生服を入れる袋があればよかったんだけど・・・」

恭子はそう言いながら、会議用のテーブル席に座っていた洋介のほうへ近づいた。

「あぁ、入れ物なら、ここに紙バッグがあるよ」

そう言いながら席を立ち、壁側のカラーボックス上にある紙バッグを取ろうとした洋介の手、そして同じように紙バックへ伸ばした恭子の手が、瞬間的に触れ合ったのである。

「あっ、ごめん」

思わず洋介は、声を発して手を引いた。しかし恭子は、そのまま紙バッグを手に取ると、学ラン服を会議テーブルの上で畳み、丁寧に入れたのだった。

「はい、これ」

そして恭子は、何か言いたそうな目をして洋介を見つめている。

「ありがとう」

紙バッグを受け取りながら、洋介もまた、恭子を見つめた。すると次の瞬間、恭子はゆっくりと瞳を閉じたのだった。

「これって、つまり、ファーストキスをするってことか・・・」

洋介は、心の中で、そうつぶやいた。そして同時に、早まる心臓の鼓動からなのか、体が急に上気して熱くなった洋介は、次の瞬間、意を決して両手を恭子の肩にまわそうとしたが、なぜか動作を止めてしまい、顔を近づけることができなかった。

本当は強く抱きしめてキスをしたいのに、どういう訳か、自分の体が動かない。洋介は恭子を前にして、立ちつくす状態で数秒ほどが過ぎたのだった。

「どうして?」

瞳を開いた恭子が怒ったように頬を膨らませ、不機嫌そうに聞いた。

「北山さんの気持ち、すごく嬉しいけど、今じゃない気がするんだ。その時になったら、キスするよ」

「もういい。今日は私ひとりで帰る」

アヒル口でそう言いながら、ふてくされた表情をした恭子は、すぐさま後ろを向いて、黙ったまま引き戸を開けると、急ぐように外へ出て行った。

「あの・・・、カバン」

会議用テーブルの上に置き忘れた恭子のセカンドバッグを手にして、洋介が後を追う。

「北山さん、バッグ忘れてるよ」

洋介の声に、立ち止まり、振り返った恭子の顔は、思ったよりも柔らかな表情をしている。

「ありがと。それじゃあ、その時まで・・・、待っていいの?」

セカンドバッグを受け取りながら、恭子が言った。

「うん。いいよ」

恭子の言葉に、洋介は、なんとなくそう返事をした。

ファーストキスの求めに対し、体は熱くなりつつも反応しなかった理由は、なぜか分からない。ただ今は、二人で見つめ合う時に感じる鼓動と、頬が痺れるほどに熱くなる血潮の感覚を大切にしたい。洋介は恭子の後ろ姿を見送りながら、そう思っていた。

東京、西新宿にある中央公園のカフェテラス。午後五時を過ぎても、上空には、雲ひとつない青空が広がっている。

「あれから、二十六年も待たされたってことね」

遠くを見つめながら、恭子が言った。

「まぁ、そう・・・、なのかな」

「その言い方って・・・、もっと待つことになるって意味なのかな~?」

そう言った恭子は、いつものアヒル口をしている。

「今となっては、お互いにパートナーがいるし・・・、キスなんてすれば、ダブル不倫になっちゃうよね」

冗談っぽく笑いながら、洋介が答えた。

「じゃあ、私が独身になれば・・・」

そう言う恭子の目が、いつの間にか真剣な眼差しになっている。

「えっと・・・、あっ、あのさ~、そろそろPTA役員の引き継ぎしない?暗くなっちゃう前に」

洋介は咄嗟に、今の雰囲気を変えたいと思った。もし、このまま昔の気持ちを引きずったなら、本当に不倫に走ってしまいそうな衝動が、心の中に湧き起こっていたからである。

「はいはい。引き継ぎが残ってたわね~」

そう言って恭子は、おもむろにショルダーバッグへ手を伸ばし、中から書類の入ったクリアファイルと、USBメモリーを取り出した。そして、それらをテーブルの上に置くと、半年に一回発行される季刊誌に学校行事の記事を載せる手順を説明した。

「まずは、学校行事の写真を撮って、その時の様子やトピックを簡単な文章にするの。その後は、それらのデータを担任の先生宛にメールで送って承認してもらえたら、最後に印刷会社へ同じデータをメールで送信して完了よ」

恭子はそう言って、これまでのデータをプリントした書類や、季刊誌のバックナンバーを洋介に見せた。

「おおまかな流れは分かったけど、問題は取材と写真撮りだね」

大手旅行会社に勤務している洋介は、昨今の観光業界を取り巻く不況の中で、支店経営の立て直しを求められている課長職にいることを話した。

「三河くんも大変なのね。じゃあ、無理な時は私に連絡して。代わりに取材してあげるわ」

「えっ、いいの?」

「いまは専業主婦で、パートも何もしていないから、実際のところ結構ヒマしてるの。息子は昔から、おばあちゃん子で、今は世田谷にある夫の実家で暮らし始めてるしね」

そう言って、恭子は自分の携帯電話を取り出し。通信アプリ起動させると、自分のIDコードを表示させて、それを洋介に見せた。

「ありがとう、じゃあ、何かあったら連絡するよ」

「何かなくても、連絡していいわよ」

そう言った恭子の大きな瞳は、真剣さを帯びて見える。

「ご、ご主人って・・・、今も毎晩、遅い帰りなの?」

恭子と自分の間に漂う魅惑的な雰囲気を変えるつもりで、洋介が言った。

「そうね~、最近は週に一、二度しか戻って来ないわね。もう夫の生活基盤は、新しい彼女が住んでいるワンルームマンションと、世田谷の実家に移っているみたい」

恭子は、割り切ったような口調で言い終わると、小さくため息をついた。

「さっき、人生のシナリオについて話したけど、北山さんって、大学を卒業してから、これまでの間、かなり苦労してきたんじゃない?」

「その通りよ。どうして分かるの?」

「龍神さまのお告げは、『二十六年後は、嬉し楽しの暮らしとなる』ってことだから、単純に、その前は苦労の連続だったのかな~って思ったんだ」

「まさに、その通りだったわ」

恭子はそう言うと、就職後に配属された職場では、上司から必要以上に営業ノルマの未達を叱責されたこと、訪問先の顧客から何度も受けたセクハラ、そして結婚後は、夫が浮気を繰り返すのは妻の責任と主張する姑が、頻繁に新中野のマンションへ訪ねて来ては、家事のすべてに干渉し、今では会話がほとんどなくなっていることを、涙目になって話したのである。

第15話へ続く。

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