現代語訳『我身にたどる姫君』(第三巻 その49)

 そのまま姫君がいる対屋《たいのや》に赴くと、仕える女房たちが以前よりも増えて華やかな感じになっていたものの、御前《ごぜん》にはほとんど人がいなかった。姫君は木の葉が散り乱れる様を見るために端《はし》近くにいたが、御簾《みす》を引き被《かぶ》って権中納言が姿を現すと部屋の中に戻った。
 ものに寄り掛かって臥《ふ》した様や容貌は以前よりも素晴らしく、音羽山の姫君と見間違えるばかりに美しい。菊の様々な色をそのまま織り込んだような二重《ふたえ》織物に同じ色合いの小袿《こうちき》を羽織り、取り繕ってはいないもののかえって端麗な髪や目元などは、口に出して表現すると不吉なことが起きてしまうかもしれないと思うほどに見事で、辺りに零《こぼ》れる華々しい気品や光り輝くばかりの気高い麗しさは、まるで音羽山の姫君の生き写しである。権中納言は音羽山の姫君に逢《あ》えぬつらい夜が続いていることを思い出し、目の前にいるのが別人だと分かっていても悲しさと恨めしさが抑えきれず、不意にほろほろと涙を流した。

(続く)

 女三宮と会うことができなかった権中納言は、むなしい気持ちを慰めるために姫君のいる対屋《たいのや》に向かいました。
 姫君は間もなく東宮(三宮)に嫁ぐことが決まっているため、以前よりも女房の数が増え、華やかな雰囲気になっているようです。ただ、姫君本人は依然として着飾らない美しさを保ち、権中納言は行方不明のままの音羽山の姫君への思いと重ね合わせて涙を流します。

 なお、姫君と似ているのは「音羽山の姫君」と訳しましたが、原文は「人」としか書かれていないため「女三宮」の可能性もあります。――今回は、少し先の「その51」で詠まれている歌から、「音羽山の姫君」の方が適切だと判断しました。ただ、女三宮と姫君(=音羽山の姫君)は異父姉妹で容姿も似ている上に権中納言も三人を同一視しているため、どちらでも意味はそれほど変わりません。

 それでは次回にまたお会いしましょう。


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