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自転車に乗っていたら永遠に遭遇したこと

当てもなく、路地裏を自転車に乗って走っていると
ふと、沈丁花の香りが漂ってきて、鼻腔をくすぐる。
走り抜ける一瞬に、すべの細胞が光を放つように
香りを受け止め、体の奥の方で感じるように「あぁ、この香り」と思う。

それは、一瞬で細胞の全てが覚醒するような、
遥か遠く記憶の深淵から、魂の扉をノックするように。静かに、しかし激しく、見知らぬ感情が立ち上がる。

毎年この季節になって沈丁花の香りを嗅ぐと、
自分の記憶の中にはない、なんとも言えない感情が立ち上がる。
その事をずっと不思議に思って、これは一体なんなのだろう?と、
長い歳月の中で考え続けてきた。

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ある2月の寒い夜の事だった。
路地裏の角を曲がると沈丁花の香りが漂ってきて、
はたと気付かされたことがある。

このなんとも言えない切ないような愛おしいような
今、感じているこの感情は、私の記憶ではないと。

この寒い季節を越えて春がもうすぐ来ることを
私の記憶を超えて、細胞の一つ一つに刻まれた生命記憶として感じているのではないか?

そして、それは全ての知覚が、私が成長の過程で獲得して来ただけに留まらず、元々、細胞やDNAに刻まれたものを感知しているのではないか?
生命進化の過程で、刻まれてきた全てを、
今、私という主体を通して、反芻しているに過ぎないのではないだろうか?

そうであるとするならば、
目の前の世界を感じているのは、私なのだろうか?

今、見ている空や景色や、この沈丁花の香りは「私だけ」が感じている訳ではなく、長い生命の歴史の中で獲得してきた知覚の一端に触れていることになる。

そこに全ての命の連鎖を見るよう思いがした。

そして、長年の「沈丁花の香り謎」の一端が解けて、自分自身が生命記憶の中に溶けて一つになって行くような気がした。

目の前にあることのほとんどが
不可思議で謎に包まれてる。

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自転車を止めて、公園のベンチに寝転がって空を眺めている、
この平和なひと時にすら不思議が満ち溢れている。

風に流されて空中をふわふわと飛んできたシャボン玉に虹色の世界が映る。
目で追いかけると、虹色の世界は弾けて、夢のように消えた。

目を閉じると世界も優しい風だけになった。

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