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わたしたちは何かがわかるほどにその何かと向き合ってなどいない

だいたい、言葉を聞いてわかるというが、それで内容までちゃんとわかるという事はない。たとえば秋の日差しと言っても、秋の日の射しかたということではないが、それは自分が本当に秋の日差しの深さがわかるようにならなければ、ことばでいってもわかりはしない。してみると本当にわかるのは簡単なことではない。

春宵十話より

これは岡潔の春宵十話の中の一文です。

岡潔のいうように、人間というのはおもしろいもので、なんでもかんでも、わかった、わかったといいます。

でも、彼のいうようにその殆どが何もわかっていません。わかっている振り、もしくはわかったと思い込んでいるに過ぎない。

私は仕事柄、色々な人と話すことが多いが、彼らの多くはわかったといいながら、実際問題何もわかってはいない。

こんなことは言ってはいけないと思うが、人間には確かにものを認識するときのレベルがあると思う。つまり解釈力にはそれぞれ差があるという事。

二人の人間に全く同じことを言ったところで、その二人が全く同じ認識を持つことは殆どまれ。でも、表面的には、この二人は同じ言葉を聞かされるわけで、それぞれその言葉を同じレベルで認識したとそう思っている。

でも、実際には違う。二人のわかったという言葉の間には途方もない差異が広がっている。

言葉というものは、本当に恐ろしいもので、わかったと誰かが言えば、そのわかったは自分のわかったと全く同じはずだ!と人間は理解してしまう。そしてそこに語弊が生まれる。

と考えていくと、わかったなんてことは本当には言えない。岡のいうように、そのものの深さをこの身でしっかりと体験なり、経験をしてみなければ、そのようなことは真にわかる訳がないという事になる。

でも、人間というのは頭でわかったわかったとそういう。そこに何の体験も、経験も持ってはいない。でも、自分の頭に思い描いたそのイメージだけで、わかったわかったとそういう。

彼らはわかったという事の本当の意味を知らない。そんな気が最近とても強くする。真にわかる、本当にそれがわかるというのは、昔の言葉で言えば、腹でわかるという事なのではないかと思う。

その経験や体験がしっかりと自分の腹に落ちるまで、そのものと正対し続ける。こうしたことが出来てはじめてわたしたちは、真にそれがわかるといえるのではないかと思うのだけれど、今現代に生きる私たちは、このわかるという言葉をあまりにも簡易的に使いすぎている。そんな感じがしてならない。

私は個人のセルフマネジメントを生業としているけれど、その多くが私のいう事をすんなりとわかる!とそういう。そこにまだ何の経験も体験も挟んでいない。実際に自分が体験している訳でも、経験している訳でもない。でも、彼らはわかる!とそういとも簡単にこの言葉を使う。

だから、ごくたまーに、そういった言葉に惑わされてしまう事も少なくない。本当にわかっていると思っていざ話をしてみれば、その殆どは何もわかってはいない。わかったと思い込んでいるだけ。そこに身体性、これは一切伴っていない。

頭だけで、首から下の身体性、これは完全に切り離されているというのが現状です。

すごい口の悪い言い方をすれば、わたしも含め、人間ってのは本当は何もわかってなどいないのではないかと思わされる。何もわかってなどいない。わかるほどに、それを体験、経験などしてはいない。なのに、いつの間にかこのわかるという言葉を私たちは安易に使うようになってしまった。

これはとても恐ろしいこと。

身体性、これを切りはなした’わかる’という言葉ほど恐ろしいものはない。

頭でわかるのと腹でわかるのという言葉の間には雲泥の差がある。

人間というのはいつからこの’わかる’という言葉をこんなにも安易に使うようになってしまったのか?

何度も繰り返しになるが、私たち人間は何かがわかるまでその対象と向き合い続けてはいない。その対象と正対などしていない。そこまでその対象との間に緊密な関係など構築はしていない。それなのに、わかるなどと安易な言葉を平気で使う。

私もこうした言葉を安易に使う一人ではあるが、そんな自分にたまにどうにもならないくらいの嫌気がさす。

何もわかってなどいない。わかるほどに個人と、社会と、世界と私たちは向き合ってはいない。

何も体験も経験もしてはいない。なのに、いとも簡単にわかるを連発する人間を見ると、なんだか心の奥深くには得も言われぬ虚しさが漂う。

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