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ボランティアという名の違和感

皆、ボランティアはいいものだと信じて何も疑うことがない。なのでこのボランティアという言葉の意味を深くまで掘り下げてみたり、考えたりすることもない。

「ボランティア」の語源は、自由意志を意味するラテン語「voluntas(ウォランタス)」である。 そこから、喜びや精神を意味するフランス語「volonte(ボランテ)」が生まれ、英語「volunteer」となった。¹ また、聖書の副詞形ウォルンターテ「自ら進んで」(動詞「 volo (ウォロ、「欲する」「求める」「願う」の意味。)から派生したという説もあります。³
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ボランティアの語源を辿っていったら、こうした内容にたどり着いた。

日本でいうボランティアとは無私の行為であると広く認知されているけれど、このボランティアの意味をより深くまで考察してみた時、日本人の行っている多くのボランティアが無私による行為ではなく、私心(自分の利益だけを考える心)に基づいているとそう考えてしまう。

そう考えてしまう私は悪なのだろうか?

こんなことを考えてしまう事もある。

もし、誰かがお金を一切使わずに、誰かを使いたいと望んだとき、誰かの労働力を得ようと考えた時、彼らは一体どう考えるか?

一番簡単に一銭も使わずに、自分の望む労働力を手にするには、その行為自体をボランティアという魔法の言葉にしてしまえばいいのだと思う。

そうなれば、慈悲深い人、自分に何か負い目を感じている人、社会に何らかの形で貢献し、自己存在意義を証明したい人、そういった自己承認欲求モンスターたちがもろ手を挙げて自ら、その労働に参加し、そこにあるその全てを代替してくれる。

ボランティアもチャリティーもそうだけれど、一気にお金を集めるには、こうした企画はとても都合がいい。相手の気持ちもよくするし、その企画を運営する人間もそれで自分の望む利益を取ることが出来る。

共に、WINWINな状態になるという事だ。

特に共感性の高い人間というのは、こうした企画に乗りやすいし、いとも簡単にお金を寄付する。

表面的に見れば、その寄付したお金はとてもいいものの様に見えるが、一歩立ち止まって考えてみてほしい。

私たちは誰かに何かを言われずとも、自ら自分の財布からお金を引き出し、募金箱の中へと入れている。この行為が、私たち個人にこの社会に貢献することが出来た、この世界の一端を担えた、小さいことだけれど社会貢献することが出来たという快楽を与える。

簡単に言えば、こうしたほんの些細な行為が自己肯定に繋がるという事になる。何かをしたい。でも、その何かが上手くできない。そうなれば人間は皆、自分を肯定することは出来なくなる。

こうなったとき、自分たちよりも身分が低いと判断した相手に力を貸すことで、私たちは自分に何らかの優位性を感じる。

そしてこの優位性が、わたしたちが今ここに在る、存在するという事を補償してくれることになる。

こうなると、ボランティアというものが真の目的ではなく、この言葉は、私利私欲を満たすための単なる隠れ蓑にさえなる。

この言葉を盾の様に使って、私たちはその背後にある本質を隠す。本当は無私による行為などではない。けれど、私心があるとは表立っては言えない。だから、それを隠すために、私たちはボランティアという都合の良い言葉を使う。

そうなると、結果誰かの為には、皆自分の為にという事になってしまう気がしないでもない。

ボランティアという言葉の真を真剣に考えつくしたのなら、その真なるボランティアの姿とは私心を超えたその先に実現されるべきものなのではないかと思ったりする。

少し古い記事にはなるが、こうした実態が在ることも私たちは1つの情報として知っている必要があるのかもしれない。


私は個人、組織におけるセルフマネジメント及び、マインドマネジメントを提供しています。私の提供するマネジメントは、こうした表面的な偽りをはがし、私心を超えた無私の領域においてそれぞれのひとが何をおもい、何を感じ、何を創造しようと思うのか?何を実現させたいと望むのか?そこに私たちのマネジメントはポイントを当てていきます。もし、ご興味などありましたら、以下のリンク、もしくはプロフィールのリットリンクをご参照下さい。よろしくお願いします。

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