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[月記]23年7月 手紙

先日、ある人に向けて一通の手紙を書いた。それが誰なのかはここでは正直どうでも良いことなのだが、それはもちろんその誰かがどうでも良い人だということを意味するわけではない。何故なら手紙を受け取る人は常に手紙を送る人にとっては大事な人だからだ。ただし、その手紙が督促状ならびに果たし状である場合を除く。

手紙というのはたいてい時間をかけて書くもので、その分メールや電話よりもずっと儀式めいていると思う。

私の場合は大概、便箋を買いに行くところから始まる。自宅にレターセットのストックを常備していないのかと問われれば、常備しているとも言えるし、していないとも言える。市販のレターセットは2-3通の封筒に対して5-6枚、多くても10枚程度の便箋がセットになっていることが多いが、その比率通りにレターセットを消費できた試しがない。手紙を書きたい相手に伝えたいことはいくらでもあって、便箋だけが異様に消費される。そしていつも封筒が余る。自宅には封筒だけがたくさんストックされていくが、便箋を買い求めるごとに封筒は追加される。さて、私が封筒を使い切るのはいつでしょうか? 答えの出せないニュートン算。

何に書くか、の次は何を書くかだ。私は必ずPCに書きたい内容を書き起こす。それは私にとってタイピングの速度の方が筆記の速度よりも思考の速度に近いからだ。指の動きが律速になると、少なからず浮かんだ言葉は失われてしまう。それを避けたいがために私は敢えて「鉛筆で書いてからペンでなぞる」のではなく「活字にしてからそれを丹念に写経する」というスタイルを取るようにしている。
タイピング以上の速度を求めるのならば「思い付くままに喋りながらその声を録音し、後で書き起こす」という方式が考えられる。しかし実際にやってみるとこれはあまり上手くいかない。たぶん早すぎるからだ。その証拠に、録音した音声は「あー」「えーと」のようなフィラーだらけで、得られる口語の文章は文語のそれよりもはるかに論理的ではなかった。
記述・打鍵・口述の速さの並びは人それぞれだと思うが、少なくとも私はタイピングをしている時がもっとも思考しやすい。

そして書き写すというフェーズになると、思考よりも気持ちが求められるようになる。要するに、文字を丁寧に書くことが大切だ。私の字はきわめて汚いのだが、汚いなりに丁寧な字とそうでない字が存在していて、できるだけ前者が並ぶように気を遣う。この時、己の意識は文字に向いているのであって、手紙を送る相手のことは考えていないはずなのにも関わらず、ここでどれだけ文字に意識を向けられたかが「思いがこもった手紙だ」と相手に思わせられるかに依存しているのは、ちょっと不思議な感じがする。
──手紙を認めている間、ずっと君のことを考えていたよ……いいや本当は、文字という記号をいかに美しく表現するかについてずっと考えていたんだよ。

封筒には、相手の名前と自分の名前を書く。封筒の両面に記載された2つの名前は、書き手にとってスタッフロールのような役割を持つ。出演はあなたでした。演出は私でした。その映画は、相手が「封切り」をする時に初めて作品として鑑賞される。

私は、このような一連のプロトコルを創作活動であると見做してみたい。その成果物である手紙は創作物と呼んでしまいたい。
手紙とは、鑑賞者がきわめて限定された特殊な創作物だ。悲劇であるか喜劇であるかさえ規定されていない特別な創作物だ。そのどちらの方が美しく思えるかは、きっと私の大事な人が決めてくれるに違いない。