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連載日本史167 幕末(2)

外国嫌いの孝明天皇を筆頭として、朝廷には攘夷派が多かった。欧米列強の使節たちと直に接する幕府首脳とは異なり、公家たちの攘夷論は多分に観念的なものであったと思われるが、公武合体による政権強化を図る幕府としては、朝廷の意向は無視できない要素であった。1863年三月、将軍家茂が上洛し、孝明天皇のもとに参内した。家光以来229年ぶりの将軍上洛であった。天皇の権威あっての征夷大将軍なのだということが、この上洛によって改めて印象づけられたことになる。家茂は結局、朝廷側からの圧力により、天皇に攘夷を約束する羽目に陥った。攘夷の期日は五月十日と定められた。

徳川家茂(Wikipediaより)

約束はしたものの、幕府は本気で攘夷を決行しようと考えていたわけではない。列強相手の軍事行動など、どう考えても勝ち目はない。天皇や朝廷の手前、書類上で開港場の閉鎖と外国人の立ち退きを通告しながらも、一方で各国の公使には口頭で攘夷実行の意志はないことを伝えていたのである。しかし、雄藩の中でも攘夷論の強かった長州藩は、まともに反応した。攘夷決行期日をもって、下関を通航する米・仏・蘭船をいきなり砲撃したのである。幕府の弱腰がわかっていて、あえて挑発行動に出たようにも見える。長州藩は早くから様式軍制改革に取り組み独自に軍備を整えつつあった。勝算があったとは言わないが、それなりの覚悟を持って軍事行動に臨んだのだろう。

長州藩外国船砲撃事件(「世界の歴史まっぷ」より)

一方、列強からの報復攻撃は、少し遅れてやってきた。まず前年の生麦事件への報復として、英国艦船が薩摩の鹿児島湾に侵入。薩英戦争が始まった。砲撃戦の末に英艦隊は撤退したが、その強大な軍事力に直に接した薩摩藩は攘夷の不可能性を悟り、通商拡大による富国強兵が先決であるという現実路線に大きく傾いた。同年八月、会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州藩を中心とした尊王攘夷派と三条実美らの急進派公卿を京から追放するという事件が起こった。いわゆる八月十八日の政変である。

薩英戦争(「世界の歴史まっぷ」より)

公武合体派が政権の中枢を握る一方で、追いつめられた急進尊攘派の志士たちは各地で暴動・暗殺を繰り返した。天誅組の変、生野の変、天狗党の乱などがそれである。1864年には公武合体・開国論を説いた当代随一の学者であり、勝海舟や坂本龍馬の師でもあった佐久間象山までもが暗殺されている。同年六月には、京都市中の池田屋に集結した長州・土佐藩などの尊攘倒幕派の志士たちを新撰組が急襲し、二十数名が殺傷・捕縛された。激闘を制した新撰組の名は天下に轟いたが、多くの有為な人材を失った尊攘派は大きな打撃を受け、ますます過激化した。

禁門の変(「世界の歴史まっぷ」より)

池田屋事件の翌月、激高した強硬派に押された長州藩は藩兵を上京させ、新撰組を管轄する京都守護職の松平容保らの排除を求めて御所に迫った。禁門(蛤御門)の変である。迎え撃つ幕府軍の主力は、薩摩・会津・桑名藩が担った。激しい戦闘の末に長州軍は敗北し、久坂玄瑞や真木和泉など、またも優秀な人材を失うこととなった。御所に兵を向けたことで長州は「朝敵」とされ、制裁のために幕府の軍勢が差し向けられた。第一次長州征伐である。十五万の大軍を前に長州は恭順の意を示さざるをえなかった。翌月には米・英・仏・蘭の四国連合艦隊が前年の長州の攘夷行動への報復のために来襲。下関砲台を占領して圧倒的な軍事力の差を見せつけた。自ら蒔いた種とはいえ、踏んだり蹴ったりである。

尊王攘夷運動の展開(「世界の歴史まっぷ」より)

だが、ふりかえってみれば、この1863年から1864年にわたる一連の事件が、時代を大きく揺り動かすターニングポイントとなったのだ。薩英戦争から遅れること一年、四国艦隊の下関来襲によって攘夷の不可能性を悟った長州では、一度は保守派が政権を握ったものの、後に高杉晋作らのクーデターによって倒幕派が実権を握り、今度は無謀な攘夷一辺倒ではなく、欧米列強との交渉や通商を通じて国力を強め、幕府を倒して天皇を中心とした新政権を樹立していこうとする勢力が主流となっていくのである。一時は憎悪と敵対意識にまみれた薩摩・長州の両藩は、多くの犠牲を払った激しい衝突の末に、ようやく同じ方向を向き始めていた。

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