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羽田空港の待ち合いで泣いた

2022年3月22日、羽田空港の待ち合いで泣いた。

止めようもなかった。
ウクライナの戦禍に呑まれた街。記者の壮絶な脱出劇についての情報を見た時の己のリアクションだった。
東京への出張を終え広島への帰路の事だった。

2003年3月20日イラク戦争開戦の時、ちょうど小学校の卒業式だった。あの時の足元が冷たくなって、足がなくなってしまったような感覚はずっと覚えている。

自分の感受性が繊細である事がもうずっと重たい。
鈍感になれない。心は血を流す傷と瘡蓋だらけだ。
ただ、真っ当なのだ。私の反応は。
鈍感な方が異常なのだ。本来は、きっと。

いまは気負わず、心が負荷に耐えられないときはそのまま泣くようにしている。
齢30を過ぎてやっと、そういう事ができるようになった。

心身を守る為、情報を常時入れないようにする代わりに、タイミングを決めて苦しくともリアルタイムでなるべく現地の実情に近いであろう情報を探して目を通す事はやめないようにしていた。
体調的な兼ね合いでどうにも耐え難いときにはやらないが、それでも、なるべく。

そう、でも。
なるべく、無理なく、という頻度であっても戦禍のあまりの悲惨と暴虐に心が耐えられなくなった。体調を酷く崩した。
いまはウクライナ情勢に関してほぼ情報を遮断している状態で、ただ状況に、日常に潰されてしまわないように、心が摩耗してしまわないように自己防衛している。


ヒロシマという平和祈願と慰霊の地で育った。
土地柄色濃く平和教育を受けた人間だし、祖父も戦争を経験していて祖母は原爆の被爆者だった。

今日は8月6日。原爆が広島に落とされて七十七年目の年。
今年の平和記念式典での広島市長松井一実氏の「広島平和宣言」ではトルストイ著「戦争と平和」より有名な一節を引用することによりロシアのウクライナ侵攻を批判した。

25歳の夏の頃、京都でタクシーに乗った時に運転手の方と話した内容をよく覚えている。
よく晴れて暑い日で、そんな朝にはじめて会ったひとと平和について”対話”ができた日だった。

ちょうど8月初旬頃。話題がてら、年配の運転手さんにどこから来たのか聞かれたので広島だと答えたところ「そろそろ原爆の日ですね」と言われて驚いた。
広島県外の方で『8月6日』を明確に記憶しているひとにその時はじめて出会ったから。

広島で育ったから、高校頃まで平和教育は他の都道府県でも同等に行われているものだと思っていた。他県の友人と話していて平和教育の内容が広島・長崎・沖縄以外では一般的ではないのだと知った。その後も県外のひとと話していてそれとなく質問しても「なんだっけ?」というリアクション以外が返される事はなかった。

その旨を伝えたところ、気さくだった運転手さんが居住まいをただしてすこし慎重な様子で「あなたは平和についてどう思っていますか?」と質問した。
戦争によって失われるもの、人道に悖る社会による個々人の人間性の喪失、戦争によって促進される科学や技術の向上・戦勝国の経済的発展とその是非、貧困、差別、平和教育カリキュラムにおける義務教育中での美術などの他教養科目実施回数の圧迫など問題点もあるが必要だと思っている等、その時点での自分の考えを話して「平和についてどう思っているか」の答えとした。

「あなたのような若い年齢のひとがそのようにきちんと勉強して忘れず自分で考えて意見を持っていること。そのことが、つまり平和という事ですよ」
というような事をその方は言った。あたたかい言い方だった。
時間が経って、細かく話した内容を記憶していないのが悔やまれるが、それでもこの時の会話はひとつの標として私の心に残っている。


情報を見て、Twitterデモに参加し、機会があれば他者と話し、僅かばかりの募金をする事しかできない一個人。
なにかを変えることはできない。
他者の苦しみや死に共鳴して勝手に痛みを感じるだけで、なにもできやしない。
それでも、自分の生活が壊れない範囲で出来ることを探す。
あの日の羽田空港のように。これからも泣くだろうけど。
日常のなかで、忘れずにいる。

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